イギリスの数学者G. H. ハーディ(1877–1947)がその晩年に書いた『ある数学者の弁明』(原題:A Mathematician’s Apology)という本があります原著はInternet Archiveで読めます。。すでに出版された日本語訳もありますが、日本における著作権保護期間は終わっているので、別の翻訳をつくってみました。
これは2019年5月21日に公開した第2版です。PDF版もあります。第2版では訳文を全面的に見直したほか、訳注を大幅に増補しました。(なお、2016年に公開した初版PDFファイルはこちらにあります。)
本文中の注のうち、アスタリスク(*)は原注で、ダガー(†)は訳注です。また後者の訳注に関しては、全部まとめて、簡単な解説を添えて本文の後にも載せてあります。
目次
私にこの本を書いてほしいといった
ジョン・ロマス氏に
緒言
C. D. ブロード教授とC. P. スノー博士 が、草稿を読み、多くの有益な批評を加えてくださったことに感謝する。彼らの提案はほとんどすべて本文に取り入れ、そうして、たくさんの未熟な点や曖昧な点を取り除くことができた。
一か所だけ、異なる扱いをした箇所がある。28節は今年の初めに『ユーレカ』(ケンブリッジ・アルキメデス協会の会誌)に寄稿した短い記事 にもとづいているが、これはあまりに最近のもので、しかも細心の注意を払って書いた文章でもあるため、再構築は不可能であるように思われた。また、彼らの重要な批評に真剣に応えようとすれば、この節を大幅に長くしなければならないが、それはエッセイ全体のバランスを壊すことになるだろう。そこで私はこの節に手を加えず、そのかわりに、私の批評家たちのおもな指摘について、末尾の覚え書きで簡潔に述べることにした。
G. H. H.
1940年7月18日
1
専門の数学者にとって、自分が数学について書いているというのは憂鬱なものだ。数学者の役割とは、何かをなすこと、新しい定理を証明すること、数学という学問に何かを付け加えることであって、自分や他の数学者のなした仕事を語ることではない。政治家は政治評論家を嫌い、画家は美術評論家を嫌う。生理学者、物理学者、そして数学者も普通同じような感情をもつ。創造する者が説明する者に対して抱く軽侮の念ほど、根源的で、一般にもっともなものはない。解説、注解、評価といったことは 、二流の知性の仕事である。
ハウスマンと真剣に言葉を交わす機会は多くはなかったが 、あるとき、これを彼との会話の俎上にのせたことがあった。レズリー・スティーヴン記念講演『詩の名称と本質』の中で、ハウスマンは、自分が「注解家」であることを断固として否定した。しかしその否定の仕方は私にはひねくれたものに思われた。彼は、注解に称賛の意を示したのである。私は愕然とした。
彼は、自身の22年前の就任講演を引用してこのように始めた。
注解の能力が天の与え給う最高の才能であるかどうか、私にはわからない。しかし天はそのようにお考えなのだろう。なぜならこの能力こそが、最も慎重な仕方で授けられてきたものだと思われるからだ。雄弁家や詩人……は、ブラックベリーほどにありふれているわけではないとしても、ハレー彗星の回帰よりは頻繁に現れる。注解家の出現はもっと稀である。……
そしてこうつづけた。
この22年間、私はある面では向上し別の面では退歩した。だが注解家になったといえるほどには向上してはいないし、注解家になったと思いこむほどには退歩してもいない。
私にとって、偉大な学者、素晴らしい詩人がそんなことを書くのは嘆かわしいことだった。そこで数週間後、ホールで彼の隣になった際に 、私は議論を吹っかけた。彼は、字句通りに受けとられることを意図してそのように述べたのか。最良の注解家の生涯が、学者や詩人のそれと比肩しうるものだと彼は考えていたのか。晩餐の間ずっと議論をつづけた末、最後には、私は彼の同意を得たように思う。もはや反論することのできない者に対しことさらに弁証法的勝利を主張すべきではないだろうが、最終的には、第一の問いへの彼の答えは「完全にはそうとはいえないかもしれない」、第二の問いへのそれは「おそらく違うだろう」というものになった。
ハウスマンの思いについては不明な点もあろうから、彼が私と同意見だと主張するつもりはない。しかし科学者たちの思いは明確であり、また私もそれを完全に共有している。だから、私が数学そのものを書くのではなく数学「について」書くとき、それは私の弱さの告白であって、若く活発な数学者たちに軽蔑や憐れみの念を抱かれたとしても当然のことだ。私が数学について書くのは、60歳を過ぎた他の数学者と同様に、本来の仕事で実績を挙げつづけるだけの新鮮な頭脳も精力も、そして忍耐をも失ったためである。
2
私はこれから数学のための弁明を提示する。もっとも、そんな弁明は不要だという意見もあるだろう。つまり、数学ほど有益であり称賛に値すると広く認められた学問は、理由の如何はともかく、ほとんどないからということだ。それは実際にそうかもしれない。アインシュタインの収めた劇的な成功以来 、世間では天文学と原子物理学が脚光を浴びるようになったかもしれないが、数学はそれに次ぐ地位にはある。数学者は目下、守勢に立つ必要はない。『現象と実在』の序文でブラッドリーは 形而上学を見事に弁護したが、そこで描かれているような攻撃に数学者はさらされていない。
ブラッドリーによれば、形而上学者は「形而上学的な知の達成はまったく不可能だ」とか、あるいは「たとえ一定程度可能だとしても、知の名に値するものではない」と批判される。「いつも同じ問題、同じ議論、同じ完膚なき失敗。もう諦めて外の世界に出てきてはどうか。他に取り組むべき仕事はないのか」といわれる。数学については、こんな物言いをする馬鹿はいない。過去の歴史の中で得られてきた数学的真理の膨大さは明白で、それは堂々とそびえ立っている。橋梁、蒸気機関、発電機といった実際の応用例は 、想像力の最も乏しい者の目にも否応なく入る。大衆は、数学に何らかの実質があることについて、そもそも疑いをもってはいない。
そういったことは全体として、数学者にそれなりの大きな安心感を与えてはいる。だが、真の数学者がそれで満足するとは考えられない。真の数学者はこう感じるに違いない。すなわち、数学の本当の価値はそういった露わな成果にあるのではなく、世間の数学に対する評判の大部分は無知と混乱にもとづくものにすぎないのであって、より理に適った数学の弁護が存在すると。ともかく私は、そのような弁明を試みたい。それは、ブラッドリーの困難な弁明よりは簡単な仕事のはずである。
それでは次のように問おう。数学を真剣に研究することには、なぜそれだけの価値があるのか。数学者の人生は、どのようにして適切に正当化されるか。そして私の答えは、大筋では、どの数学者からも予想されるようなものである——私は数学の研究には価値があるし、十分な正当化も可能だと考えている。しかし同時にいわねばならないが、私の行う数学の弁護はすなわち私自身の弁護であり、したがって私の弁明はある程度利己的にならざるをえない。もし私が自分をこの道の敗北者と思っていたなら、数学の弁護などに価値をみいだすことはなかっただろう。
この種の利己性はある程度は不可避であり、実のところ正当化する必要もないと思う。よい仕事は「慎ましい」者からは生まれない。たとえば大学教授についていえば、その最も重要な職務の一つは、どんな分野であれ、自分の専門分野の重要性と、その分野における自らの重要性を、少しばかり誇張することだ。「自分の仕事には価値があるのか」とか「他に適切な者がいるのではないか」と問うてばかりいる者は、例外なく無能な存在で、他者の活力をも奪う。目を軽く閉じ、自分のテーマと自分自身を少し余分に高く買ってやらなくてはならない——これはそう難しいことではない。強く目を閉じすぎてテーマと自分自身を愚かしいものにしないことのほうは、もっと難しいのであるが。
3
自分の存在とその仕事を正当化しようとする者は、二つの異なる問いを明確に区別しなければならない。第一の問いは、自分の仕事には取り組むだけの価値があるのかということ。第二の問いは、価値はともかく、なぜ自分はそれに取り組むのかということである。第一の問いに答えることは往々にして非常に難しく、結論は落胆を伴うものになりがちだ。だが多くの人が、第二の問いに答えるのは容易だと感じるだろう。誠実な人の出す結論はたいてい、以下の二つの形のいずれかをとる。二番目は一番目を謙遜して述べ直したものにすぎないから、きちんと考察する必要があるのは一番目の形だけである。
(一)「私がこの仕事をするのは、つまるところ、これが自分のよくできる唯一のことだからだ。私が弁護士、株式仲買人、あるいはプロのクリケット選手をしているのは 、その仕事に関しては、いくらか本物の才能をもっているからである。私が弁護士をやっているのは、自分は弁が立つし、法の機微を興味深いと感じるからだ。私が仲買人をやっているのは、市場の状況を素早く正確に判断できるからだ。私がクリケット選手をやっているのは、ボールを打つのが人一倍うまいからだ。詩人や数学者だったらもっといいかもしれないとは思うが、残念ながらそういった才能は自分にはない。」
私は、多くの人がこのような形で自分を弁護できるといいたいわけではない。なぜならほとんどの人には、特別よくできることなど何もないからである。とはいえ、この弁護が無理なくあてはまる人にとっては、これは堅固な弁護の仕方だ。そうした多少なりとも得意なことをもつ人は相当にかぎられている。その割合は5ないし10パーセントといったところだろう。何かを真によくできる人はごくわずかであり、真によくできることを二つもつ人は、無視できる程度にしか存在しない。本物の才能をもつ者は、それを最大限に伸ばすため、ほとんどあらゆる犠牲を払う覚悟をすべきである。
ジョンソン博士もこの考えを支持している 。
3頭の馬を御すジョンソン[彼と同名の別人]を見物に行ったことがあると話したところ、彼はこういった。「その男は、旦那、激励に値しますよ。なぜって彼の芸当は、人間の能力の限界を示すものですから……」
彼はおそらく、登山家や、海峡横断泳の成功者や、目隠しチェスのプレイヤーのことも 同じように称賛しただろう。私も、そういった偉業への取り組みには心から共感する。奇術師や腹話術師といった人々にさえもいくらかの共感をもっているし、たとえばアレヒンやブラッドマンの新記録挑戦が失敗に終わったならば 、私はずいぶん意気消沈することだろう。ジョンソン博士も私も、こういったことに関しては世間と同意見だ。W. J. ターナーがいみじくもいったように、そういう「本物の名士」に敬意を払わないのは、(いやみな意味での)「知識人」だけである。
もちろん、個々の仕事のもつ価値の差異を考えに入れる必要はある。私は政治家であるより、同程度の小説家や画家でありたいと思うだろう。それに、名を馳せるに至る道のうちには、明らかに有害だとして多くの人が否定するようなものもたくさんある。だがそういった価値の差異が、人の職業選択に影響することはほとんどない。なぜならたいていの場合、生来の能力的限界によって職業は決まってしまうからだ。詩はクリケットよりも高い価値をもつが、ブラッドマンが二流の詩作(彼がいい詩を書くことは考えづらいと思う)のためにクリケットを捨てるのは愚かというものだろう。もう少しクリケットの能力が低く、詩の能力が高ければ、選択は難しくなるかもしれない。たとえば私が今の自分ではなかったとして、ヴィクター・トランパーだったらよかったか、それともルパート・ブルックがよかったかは決めかねる。けれど幸いにも、そんなジレンマは滅多に起こらない。
さらに付け加えるなら、そういうジレンマが数学者の身に生じることは、とりわけ珍しい。数学者とそれ以外の人々の精神の働きの違いはひどい誇張をされがちだが、しかし数学の才能が最も特殊な才能の一つであることは否定できない。数学者とよばれる人々は、一般的能力や多才さの点では、特に優れているとはいえない。ある人がいかなる意味にせよ真の数学者であるなら、その人は九分九厘、他の何よりもずっと、数学に秀でているのである。他でたいした仕事もできないのに、自らのただ一つの才能を活かすまっとうな機会を放棄するのは馬鹿げたことだ。そのような犠牲を正当化するものが仮にあるとすれば、それは経済的な理由と年齢だけである。
4
この年齢の問題に関しては、ここで言及しておくべきだろう。なぜなら、これは数学者にとって非常に重要なことだからだ。すべての数学者は、数学がいかなる種類の芸術や科学よりも若者のための競技であることを、片時も忘れてはならない。卑近な例であるが、王立協会の会員に選出される者の平均年齢は、数学の場合が最も低い。
もっと説得力のある実例を挙げることも容易である。たとえば、間違いなく世界の三大数学者の一人に数えられる存在であった、ある者の経歴をみるのがよいだろう。その者、ニュートンは、数学界を50歳で引退した。しかも彼の情熱は、さらにずっと前に失われていたのだった。彼は、40歳のときには間違いなく、既に自分の最も創造的な時期が過ぎ去ったことを認識していた。ニュートンの最も偉大な創意、すなわち流率と引力法則の概念が 彼の頭に浮かんだのは、1666年ごろ、彼が24歳のときである——「そのころ、私は創造の最高潮に達していた。数学と哲学のことを、その後のどの時期と比べてもよく考えていた」。彼は40歳の手前まで大発見をなしつづけたが(「楕円軌道」は37歳のとき)、その後は新しい発見をすることはほとんどなく、過去の仕事を磨きあげるだけだった。
ガロワは21歳で、アーベルは27歳で、ラマヌジャンは33歳で、リーマンは40歳で死んだ 。もっと高齢で偉大な仕事をした者もいたのは確かである。ガウスが微分幾何学を論じた偉大な著作が出版されたのは、彼が50歳のときだった(けれども、その根底をなす考えは、それより10年前に得られていた)。私は、数学上の大きな進歩に先鞭をつけた者が50歳を超えていた例を知らない。もう若くない者が数学への興味を失って、この世界から離れていったとしても、損失はさほどではないだろう。数学にとっても、その者自身にとっても。
一方で、そのことによる利益もたいして期待はできない。過去の数学者のその後を追ってみると、決して希望はもてないことがわかる。ニュートンは比較的有能な造幣局長官ではあった(ただし、誰かと論争中でないとき)。パンルヴェはフランスの首相として、あまり成功しなかった。ラプラスの政治的な経歴はきわめて不名誉なものだったが、これは妥当な例とはいえないだろう 。彼の場合は、能力がないというより不誠実だったのだし、それに数学界から完全に「引退して」はいなかった。過去の一流の数学者で、数学をやめてから他の分野でも一流の存在になった例をみつけるのは、非常に難しいパスカルがもっともいい例のようだ。。若者たちの中には、仮に数学をつづけていれば一流の数学者になったであろう者もいたかもしれないが、もっともらしい例を聞いたことはない。そしてここまでに述べたことは、私自身のかぎられた経験によっても、十分に裏付けることができる。私の知る、真の才能をもつ若い数学者は、みな数学に忠実だった。それは野心がないからではなく、野心に満ちあふれているがゆえであった。彼らはみな認識していたのだ。傑出した人物になる道があるとすれば、それは数学にこそあるのだということを。
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もう一つのよくみられる弁明の仕方として、先ほど「謙遜して述べ直したもの」とよんだものがあった。しかし、これには簡単に触れるにとどめよう。
(二)「特別によくできることなど私にはない。今の仕事にたどり着いたのは成り行きで、他のことをする機会は全然なかった。」この弁明も、議論の余地のない説明には違いない。いかにも、ほとんどの人々には、よくできることなどないのだ。だとすれば、彼らがどんな仕事を選ぶかは重要ではないし、それ以上いうべきことは、まったく何もない。これは決定的な返答ではあるが、誇りある者のする返答としては考えられないと思う。私たちの誰もが、これには満足できないものと仮定してよいだろう。
6
それではいよいよ、3節で取りあげた第一の問いについての考察を始める。これは第二の問いよりもずっと難しい。数学は——つまり、私や他の数学者たちが数学と考えているものは——取り組むだけの価値があるだろうか。あるとするならば、それはなぜか。
私は、1920年にオクスフォード大学で行った就任講演の冒頭を読み返してみた。その中身は、数学のための弁明の骨子である。それはまったく不十分なものだし(数ページにも満たない)、文体は(私が当時「オクスフォード式」だと思っていた文体で書いた、おそらく初めての原稿だった)、今では誇らしくも感じられない。それでも私は、議論の浅い部分は目につくにせよ、その弁明が問題の本質をとらえていると思う。本格的な議論への導入とするため、そのとき述べたことを要約する。
(一)私は講演を、数学の〈無害さ〉を強調することから始めた。「数学の研究は、たとえ無益だとしても、完全に無害な職業である。」私はこの主張を貫くが、いうまでもなく、詳細な議論を展開する必要があるだろう。
本当に数学は「無益」だろうか。いくつかの観点にもとづき、それは明確な誤りだといえる。たとえば、数学はそれなりに多くの人々に大きな喜びを与えている。しかし私は、もっと狭い意味での「益」を考えていたのだ。つまり、数学は「有用」か——他の科学、たとえば化学や生理学などのように、直接的に有用かということだ 。これは簡単極まる問いとはいえないし、衆目の一致する結論は存在しない。私は最終的にノーと答えるが、数学者の一部やその他の人々の多くは、間違いなくイエスというだろう。そしてまた、数学は「無害」だろうか。やはり答えは明らかではない。それに、これは設定することを避けるべき問いだったともいえるだろう。なぜならこの問いは、戦争に対する科学の影響という大問題を提起するからである。果たして数学は無害だろうか。つまり、たとえば化学は明らかにそうではない、という意味で。以上の二つの問いについては、後で再び論じる必要がある。
(二)つづけて私はこう述べた。「宇宙の巨大さを思えば、仮に我々が時間を浪費しているとしても、大学で働くごく少数の学者が人生を無駄にすることは、壊滅的な惨禍にはあたらない。」この箇所では、ついさっき私が否定した過剰な謙遜による弁明が採用されているようにみえるかもしれないし、あるいはそれを装っているようにみえるかもしれない。しかし確信をもっていうが、実際に私の念頭にあったのはそういうことではなかった。3節で言葉を尽くして説明した内容を、手短に述べようとしたのである。私は、われわれ大学人にはわずかばかりの才能が確かにあって、その才能を活かすべく全力を尽くすことが悪かろうはずはないと考えていたのだ。
(三)最後に、私は(今では堪えがたいほど修辞的に感じられる言い回しで)数学的成果の永続性を強調した。
我々の仕事は小さいかもしれぬが、なにがしかの永続性を備えている。どんなに小さなものであろうと、永続的な興味の対象を生んだのならば、それが一篇の詩であっても幾何学の定理であっても、大多数の人々の力が遥かに及ばぬことをなしたことになる。
そしてこう述べた。
伝統的学問と新しい学問が衝突するこの時代においては、ピタゴラス以前に始まり、アインシュタイン以後もつづく、最も歴史あると同時に最も若い学問について、語られねばならぬことが確かに存在する。
これらはすべて「修辞的」である。しかし当時述べたことの本質は、私には今でも真実を衝いているように思われる。またこれを、まだ結論を提示していない他の問いに予断を与えることなく、すぐに敷衍することができる。
7
この本の読者諸氏は、適切な野心に満ちておられるか、または過去にそうであったと仮定しよう。人の最も大切な義務、少なくとも若者の義務は、野心をもつことである。野心は、気高い、そしてさまざまな正当な現れ方をもつ情熱である。アッティラやナポレオンの野心にさえ、何かしらの気高さがあったのだ 。だが、最も気高い野心は、永続的な価値をもつ何かを後世に残そうというものである。
Here, on the level sand,
Between the sea and land,
What shall I build or write
Against the fall of night?Tell me of runes to grave
That hold the bursting wave,
Or bastions to design
For longer date than mine.
野心は、世界中のほとんどの偉業の裏で、その原動力となってきた。特に、人の幸福に直接的に寄与する多くのことは、野心をもつ人間によってなされた。有名な二つの例を挙げるならば、リスターやパスツールには野心はなかったか。またはもっと卑近な例として、キング・ジレットやウィリアム・ウィレットはどうだったか 。近年、彼らよりも人の快適な生活に貢献した人がいるだろうか。
とりわけ生理学からはよい例が得られる。それは生理学の研究が、明らかに「有益な」ものだからだ。われわれは、科学を弁護する者にありがちな誤った考えに囚われてはならない。つまり、最も人類に益をもたらす仕事をする者が、仕事の間その益のことだけを考えているとか、たとえば生理学者が、特別に高貴な魂をもっているという考えである。生理学者にとって、その仕事が人類に役立つことを思うのは確かに悪い気はしないことだろうが、彼らに仕事の原動力やインスピレーションを与えている動機は、古典学者や数学者の場合と何も違いはない。
人が研究活動を遂行するにあたっては、尊重されるべき多様な動機があるが、とりわけ重要なものが三つある。第一のもの(それなしには残りの動機が意味を失うもの)は、知的な好奇心、真実を知ろうという欲求だ。次に、専門家としての誇り、自分の仕事に満足したいと切望する気持ち、誇り高い職人がその才能にふさわしくない仕事をしたときの打ちのめすような屈辱感である。最後に、野心、名声や地位に対する欲望、それがもたらす権力や金への欲望だ。確かに、一仕事終えたとき、それによって人々の幸福に寄与したとか、苦しみをやわらげたと感じるのはよい気分かもしれないが、それは仕事をした理由にはなりえない。もしある数学者が、化学者が、あるいは生理学者であっても、人類の役に立ちたいという望みこそが仕事の原動力だと私にいったなら、私はその人を信用しない(または、信用するとしても、その言のために高い評価を与えたりはしない)。その人の主要な動機は私が上に述べたものなのであり、まともな人間は、それを恥じる必要はないのだ。
8
もし研究活動の主要な動機が、知的好奇心、専門家としての誇り、そして野心であるとするなら、間違いなく、数学者ほどその動機を満足させる機会をもつ人々はいない。数学者の研究対象は、どんなものより好奇心をそそる——真理がこんなにも気まぐれに戯れる分野は他にない。数学は最も精巧で最も魅惑的な技法によってつくられ、真の専門的能力を示すための最高の場を提供する。それに加えて、歴史が十分に証明しているように、数学の業績というものは、その本質的価値がどうであれ、最も長く残るのである。
このことは、歴史の曙のころの文明についてさえみられることである。バビロニアやアッシリアの文明は消滅した。ハンムラビ、サルゴン、ネブカドネザルは、ただその名を残すのみである。けれどもバビロニアの数学は現在でも興味深いし、バビロニアの六十進法は天文学でいまだに使われている。しかし、決定的な実例は、もちろんギリシャの数学である。
ギリシャ人たちは、現代のわれわれの立場からも「本物」といえるような初めての数学者だった 。東洋の数学も魅力的な蒐集品かもしれないが、ギリシャ数学は本物である。ギリシャ人たちは、初めて現代の数学者が理解できるような言葉を語った——リトルウッドがかつて私にいったように、彼らは優秀な生徒とか「奨学生候補」などではなく、「他のカレッジのフェロー」なのだ。それゆえギリシャ数学は、ギリシャ文学と比べてさえもなお「永遠」の存在だ。アイスキュロスが忘れられようともアルキメデスは記憶に留まりつづけるだろう。言語は失われても数学上の観念は滅びないからだ。「不滅」とは愚かな言葉かもしれないが、それがいかなる意味であるにせよ、おそらく数学者はその言葉に最も近い存在である。
数学者はまた、後世の人々に不当な評価を受けることについて、深刻に恐れなくてよい。不滅の存在であることは、ときに馬鹿げていたり残酷だったりする。オグやアナニアやガリオになりたいという者はまずいないだろう 。数学においてさえ、歴史が奇妙ないたずらをすることはある。初等微積分の教科書におけるロルの姿は、まるでニュートンに並ぶ数学者であるかのようである。ファレイが不滅の名を得たのは、ハロスが14年も前に完全な証明を与えた定理を理解できなかったからだ。ノルウェーの5人の名士はアーベルの伝記に名を残しているが 、これは良心にもとづく彼らの愚策ゆえであって、職務に忠実であることで、自国の最高の偉人アーベルを犠牲にしたためだ。しかし、概していえば、科学の歴史は公平だし、数学においては特にそうである。数学ほど学問的な基準が明確な、あるいは皆が基準を共有している分野はない。後世に記憶されている者は、そのほとんどすべてが記憶に値する者である。数学における名声は、対価として支払う金をもっているのならば、最も合理的で確実な投資の一つである。
9
今述べたことは大学教授にとって、中でも数学の教授にとっては特に、心安らぐことだ。弁護士や政治家や実業家がときどき仄めかすのであるが、学者という仕事は、おもに意気地がなく野心のない人間が、安心や安定を第一に考えて選ぶものだという言説がある。しかしこの非難は、ずいぶん的はずれである。たしかに大学教授は何物かを放棄している。特に、大金を手にする可能性を放棄している——実際のところ、教授が2,000ポンドの年収を得ることは非常に困難である 。それを放棄するにあたって、大学教授のもつ終身在職権により得られる安定は、当然、一つの理由ではある。しかしハウスマンは、サイモン卿やビーヴァーブルック卿になれる可能性を 安定のために拒絶したのではない。ハウスマンは野心をもつがゆえに、20年も経たずに忘却されることに耐えられなかったために、彼らのするような仕事を拒絶したのである。
しかしながら、先ほど述べたような数々の強みがあるにもかかわらず、なお敗北の可能性があるのは、なんとも辛いことだ。私はバートランド・ラッセルの語った恐ろしい夢のことを思い出す 。時は西暦2100年ごろ、彼は大学図書館の最上階にいた 。図書館職員が巨大な屑籠とともに書架を巡回する。職員は次から次へと本を手にとり、一瞥して、それを棚に戻すか籠に放りこむか決めるのだ。その職員はついに大判の三巻本にたどり着いた。ラッセルは、それらが『プリンキピア・マテマティカ』の最後に残った一部であるのをみてとった。職員はその一冊を開き、数ページをめくると、奇怪な記号の羅列にしばし混乱の表情を浮かべ、本を閉じ、それを手のひらにのせて、決めかねるような様子をみせるのだった……
10
数学者は画家や詩人と同じく、
Not all the water in the rough rude sea
Can wash the balm from an anointed King.
これよりも見事な詩句があるだろうか。同時に、これよりも陳腐で虚偽に満ちた観念があるだろうか。観念の貧弱さは、言語的様式の美にはほとんど影響していないようである。その一方で、数学者には観念のほかに扱うべき対象はなく、それゆえ数学者の様式は多くの場合、より長い寿命をもつのだ。観念は言葉よりもゆっくりと色褪せてゆくからである。
数学者の様式は画家や詩人のそれと同じく、〈美しい〉ものでなければならない。観念は色彩や言葉と同じように、互いに調和しなければならない。美は第一のテストである——醜悪な数学に永遠の地位は与えられない。そして私はここで、いまだ世間に膾炙する、ある誤解に触れなければならない(20年前よりは相当改善してはいるが)。ホワイトヘッドが「文学的迷信」とよんだその誤解とは 、「数学を愛することや美しさを味わうことは、いかなる世代においても、少数の奇人だけの偏執的趣味である」というものだ。
今や、教養を備えた人物の中から、数学の美的魅力に無反応な者を探し出すのは難しいだろう。数学的な美を定義することは非常に困難ではあろうが、それはいかなる種類の美についても同じことだ——私たちは美しい詩とは何かということを理解してはいないかもしれないが、だからといって美しい詩を読んで、その美しさを認識できないわけではない。ホグベン教授は数学のうちにある美的要素の重要性を矮小化しようと熱心だが 、しかし彼でさえもそういう要素の存在を否定しようとはしない。「確かに、冷たく非人間的な魅力を数学に感じとる人々は存在する。……選ばれた少数の人々にとって、数学の美的魅力はまぎれもなく実在するものかもしれない。」だが彼は、そんな人々は「少数」で、そして「冷たい」心の持ち主だと(しかも、広々とした土地に吹く爽やかな風から逃れるように、つまらない小さな大学町にこもっている実に愚かな人々なのだと)示唆する。そうして彼は、ホワイトヘッドのいうところの「文学的迷信」をただ繰り返す。
しかし、実際には、数学ほど「大衆向け」の学問はそうはないのだ。多くの人々は、心地よい音楽を楽しむのと同じように、数学にいくらかの楽しみをみいだす。そしておそらく、音楽に対してよりも、数学に対して真剣な興味を抱く人のほうが多い。一見すると逆のような印象があるかもしれないが、その印象には簡単な理由がある。音楽と異なり、数学は集団感情を刺激することには使えない。また、音痴であることはいくぶん不名誉なこととみなされる(確かにそうだ)一方で、多くの人は数学の名に恐れをなしているため、たいして気取ることもなく、自身の数学的無知を喧伝するのである。
「文学的迷信」の愚かしさを示すには、ほんのわずかな考察で十分である。すべての文明国には、多くのチェス・プレイヤーがいる——ロシアでは教育を受けた国民のほとんどすべてがそうである 。そしてチェス・プレイヤーはみな、〈美しい〉対局やチェス・プロブレムの美しさ を認識し、味わうことができる。チェス・プロブレムは単なる純粋数学の練習問題にすぎないにもかかわらず(対局は完全にそうとはいえない。心理戦の側面もあるからだ)、皆がプロブレムのもつ数学的な美しさを讃える。その美しさは比較的低級なものであるにしてもだ。チェス・プロブレムは、数学の賛美歌である。
ブリッジについて同じ考察をすれば、さらに低級ではあるが、より多くの人々にあてはまる。もっとレベルを落とすならば、大衆新聞のパズル欄でもよい。それらの絶大な人気が何に向けられているのかといえば、それはほとんどが初歩的数学の魅力に対してなのであって、デュドニーあるいは「キャリバン」のような腕利きのパズル作家 が利用しているのは、ほぼそれだけである。彼らは心得ている——大衆が欲しているのはちょっとした知的快感であり、その快感を数学ほどもたらすものはないということを。
こんなことを付け加えてもよいかもしれない。すでに名を遂げた者をも(そして過去に数学を蔑む言葉を吐いた者でさえをも)上機嫌にさせるのに、彼が本物の数学の定理を発見すること、または再発見すること以上のものはない。ハーバート・スペンサーは自伝の中で 、彼が20歳のときに証明した、円に関する定理について再び書いている(それがプラトンによって二千年以上も前に証明されていたことも知らずに)。ソディ教授は、もっと最近の、もっと著しい例である (しかし彼の定理は実際に彼自身のものだ)『ネイチャー』137–9巻 (1936–7)の「Hexlet」に関する彼のレター論文数編をみよ。。
11
チェス・プロブレムは本当の数学には違いないが、ある意味で「つまらない」数学である。どんなに精妙な問題であっても、どんなに独創的な手順からなっていても、何か本質的なものが欠けている。チェス・プロブレムは重要でないのだ。最高の数学は美しいと同時に〈真剣〉なものである。「
私はここで数学の〈実際的〉な帰結を問題にはしていない。この点には後でまた触れる必要があるが、とりあえず次のようにだけ述べておこう。もしチェス・プロブレムを露骨な意味で〈無益〉というならば、それは最高の数学のほとんどについてもまったく同様である。実際的な意味で役立つ数学はごくわずかしかなく、しかもそれらは他の数学と比べてつまらない。数学の定理の〈真剣さ〉は、実際的な帰結にあるのではなく——それは通常無視してよい——それが結びつける数学的観念の〈意義〉にあるのである。大雑把にいえば、ある数学的観念が〈意義深い〉というのは、目を見張るほど自然な方法によって、他の数学的観念のなす大きな複合体へと結びつけられることだ。こうして真剣な数学の定理、すなわち意義ある諸観念を結びつける定理は、しばしば数学自身や他の科学における重要な進展をもたらす。どんなチェス・プロブレムも、科学的思考の全体的な発展に寄与したことはない。一方でピタゴラス、ニュートン、アインシュタインは、それぞれの時代において科学的思考の方向性を全面的に変えたのだ。
ある定理の真剣さは、もちろんその帰結のうちにあるわけではない。帰結は真剣さの単なる証拠にすぎない。シェイクスピアは英語の発展に巨大な影響をもたらした。オトウェイの影響は無きに等しい 。しかし、それが理由でシェイクスピアのほうが優れた詩人であるわけではない。シェイクスピアがより優れた詩人なのは、彼がよりよい詩を書いたからだ。チェス・プロブレムが格下なのは、オトウェイの詩と同じように、その帰結のためではなく、内容のためである。
もう一つ、ごく軽く触れておきたいことがある(ごく軽く、というのは、つまらないからではなくて難しい点だからであり、私には美学における真剣な議論をするだけの十分な資格がないからなのだが)。数学の定理の美しさはその真剣さに大きく依存している。詩においてさえ、ある一行の美しさが、そこに含まれる観念の重要性にある程度まで依存するように。私は前に、純粋な言語的様式の美しさの例として、シェイクスピアの詩から2行を引用した。しかし
After life’s fitful fever he sleeps well
はもっと美しく感じられる。様式は同程度に素晴らしい。そして今度は、観念に意義があり、主題がしっかりしており、それゆえに私たちの感情はより深く揺り動かされる。詩においてさえ観念は様式にとって重要なのであり、当然のこととして、数学においてはもっと重要だ。しかしこの問題を深追いしようとすべきではないだろう。
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そろそろ明らかなことだが、さらに歩を進めるためには、数学者の誰もが一級品と認めるような「本物の」数学の定理の例が必要である。そして私は、この本が従うべき制約のために非常に不利な状況におかれている。一方では、私の提示する例はごく単純で、数学の専門的知識をもたない読者でもわかるものでなければならない。長々とした前提知識の説明は不要で、しかも読者が定理の主張だけでなく、証明をもたどることが可能でなければならない。これらの条件により、たとえばフェルマーの「二つの平方数」定理や平方剰余の相互法則といった、数論における最も美しい定理の多くが 除外される。しかしもう一方では、私の例はとびきりの数学、専門的に研究に取り組む数学者の手になる数学から引いてこなければならない。この条件によって、比較的説明しやすいが論理学や数理哲学の領域にはみ出るような多くの定理が 除外される。
ギリシャ人たちへと遡る以外の手は思いつかない。私はギリシャ数学における二つの著名な定理を述べ、証明を与えよう。これらは観念と外見の両面において「単純な」定理であるが、最高級の定理であることに疑いはない。いずれも発見されたときと同じように新鮮で意義深く、二千年の歳月によっても皺一つ刻まれていない。それに、これらの定理はその主張も証明も、聡明な読者には、どんなに数学的素養が乏しくとも、一時間もかからずに理解できる。
(一)第一の例は、ユークリッドによる『原論』第IX巻20。『原論』の定理には出自が明らかでないものも多いが、この定理をユークリッド自身のものでないと考える特別な理由はない。素数が無限に多く存在することの証明である。
「素数」とは、
(A)
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, ...
という、それ以上約数の積に分解できない数である技術的な理由により1は素数とはしない。。したがって37や317は素数である。素数は、それらを元にすべての数が乗法によって組み立てられるような素材である。つまり$666=2\cdot 3\cdot 3\cdot 37$といったことだ 。それ自身が素数でないようなすべての数は、少なくとも一つの(もちろん、通常はいくつかの)素数で割り切れる。われわれがすべきことは、無限に多くの素数があることの証明だ。すなわち、数列(A)には終わりがないということである。
この数列に終わりがあると仮定して、
2, 3, 5, ... , $P$
がその完結した素数の列であるとしよう(よって$P$が最大の素数である)。そしてこの仮定のもとで、
$Q=(2\cdot 3\cdot 5\cdot\dotsb\cdot P)+1$
という式で定義される数$Q$を考える。$Q$が2, 3, 5, $\dotsc$, $P$のいずれでも割り切れないことは明らかだ。なぜなら、これらのどの数で割っても余りが1となるからである。しかし、$Q$自身が素数でなければある素数によって割り切れるはずだから、$P$までの素数よりも大きな素数が存在する(それは$Q$自身という可能性もある)。これは$P$よりも大きな素数がないとしたわれわれの仮定と矛盾する。したがってこの仮定は誤りである。
以上の証明は「背理法」によるものであって、ユークリッドが特に好んだこの方法は、数学者の最高の武器の一つだ背理法を用いないように証明を修正することもできる。ある学派の論理学者は、それを好むだろう。 。これはチェスの序盤戦のどんな定跡よりもはるかに洗練されている。チェス・プレイヤーはポーンを、あるいはもっと強い駒さえをも 犠牲として差し出すことがあるが、数学者は対局そのものを差し出すのである。
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(二)私が第二の例として挙げるのは、ピタゴラスによるこの証明は伝統的にピタゴラスに帰せられてきたが、実際には彼の学派によるものだ。この定理はより一般的な形でユークリッドに現れている(『原論』第X巻9)。$\sqrt{2}$の「無理数性」の証明だ。
「有理数」とは整数$a$, $b$によって与えられる分数$\dfrac{a}{b}$のことだ。$a$と$b$に共通の約数はないと仮定してよい。あれば取り除くことができるからである。「$\sqrt{2}$が無理数である」というのは、2が$\left(\dfrac{a}{b}\right)^2$という形に表されないことの言い換えにすぎない。これはまた、方程式
(B)
$a^2 = 2b^2$
を満たす共通の約数をもたない整数$a$, $b$はないということでもある。これは純粋に算術の定理であって 、「無理数」についての知識はいらないし、無理数の性質についてのいかなる理論を用いる必要もない。
われわれは再び背理法によって議論する。(B)が正しいと仮定しよう——ここで整数$a$, $b$は共通の約数をもたないとする。(B)から$a^2$が偶数であることが従い($2b^2$は2で割り切れるから)、ゆえに$a$は偶数である(奇数の平方は奇数だからだ)。$a$が偶数なのだから
(C)
$a = 2c$
となる整数$c$がある。そうすると
$2b^2 = a^2 = (2c)^2 = 4c^2$
すなわち
(D)
$b^2 = 2c^2$
となる。こうして$b^2$が偶数とわかり、ゆえに(前と同じ理由によって)$b$は偶数である。まとめると、$a$と$b$はともに偶数で、共通の約数2をもつ。これはわれわれの仮定に矛盾し、よって仮定は誤りである。
ピタゴラスの定理により、正方形の対角線は一辺と通約不可能である(つまりそれらの比は有理数でないということで、言い換えると両者は共通の単位の整数倍としては表されない)。というのは、一辺を長さの単位としてとり、対角線の長さを$d$とすると、これもピタゴラスに帰せられるよく知られた定理によってユークリッド『原論』第I巻47。
$d^2=1^2+1^2=2$
となり、$d$は有理数ではありえないからだ。
数論からは、意味だけならば誰もが理解できるような素晴らしい定理を無数に引用することができる。たとえば、「算術の基本定理」とよばれる、どんな整数も素数の積にただ一通りのやり方で分解できるという定理がある。つまり$666=2\cdot 3\cdot 3\cdot 37$であり、他の分解の仕方はない。$666=2\cdot 11\cdot 29$とか$13\cdot 89=17\cdot 73$などということはありえない(なおかつ、それが実際に積を計算しなくてもわかる)。この定理は、その名が示すように、より高級な算術の基礎となる。しかし証明は、「難しい」わけではないが、多少の準備が必要で、非数学者の読者には退屈に感じられるかもしれない。
フェルマーの「二つの平方数」定理とよばれる有名な美しい定理もある。素数は(特別な素数2を除けば)二つの種類に分けられる。4で割って1余る素数
5, 13, 17, 29, 37, 41, ...
と4で割って3余る素数
3, 7, 11, 19, 23, 31, ...
である。第一の種類に属する素数は二つの整数の平方の和として表すことができ、第二の種類に属する素数は決してそのようには表されない。つまり
$5=1^2+2^2,\quad 13=2^2+3^2$
だが、3, 7, 11, 19はそのようには表されない(総当たりにより読者にも確かめられよう)。このフェルマーの定理は算術の最も素晴らしい定理の一つと考えられているが、それは正当なことだ。残念ながら、数学の専門家以外に理解可能な証明はない。
「集合の理論」(Mengenlehre)にも、連続体の「非可付番性」に関するカントールの定理のような美しい定理がある 。今度の難しさはこれまでとは正反対のものだ。証明は、いったん言語を習得しさえすれば十分にやさしい。しかし定理の意味を明らかにするために、かなりの説明が必要となる。だからもう、これ以上例を挙げようとするのはやめよう。すでに挙げた例は試金石の役割を果たす。これらのよさがわからない読者は、数学のいかなるよさもわからないと思われる。
私は、数学者とは観念の様式をつくる者であり、その様式は美しさと真剣さの観点から判断されるものだと述べた。先ほどの二つの定理を理解した者が、これらの定理がそのテストに合格することに疑いを挟むことは、私には想像できない。もしこれらを、デュドニーのもっとも巧妙なパズルとか、その道の大家がつくった最高のチェス・プロブレムと比較するならば、二つの定理のほうが優位にあることは、どちらの観点からもはっきりしている。そこには紛れもない格の違いがある。これらの定理のほうがはるかに真剣であり、はるかに美しい。その優位性がどこにあるのか、もう少しくわしく見極めることができるだろうか。
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第一に、〈真剣さ〉の観点において数学の二つの定理がもっている優位性は明らかで、その差は圧倒的ですらある。チェス・プロブレムは、独創的ではあるがごくかぎられた観念の組み合わせにすぎず、それらの観念は根本的には似たり寄ったりだし、他分野への影響もない。仮にチェスが発明されていなかったとしても、われわれの思考法に変わりはないだろう。しかしユークリッドやピタゴラスの定理は、数学の枠を超えて、われわれの思考に深く影響している。
かくしてユークリッドの定理は、算術という構造物の要である。素数は算術を築き上げるための素材であり、ユークリッドの定理は算術の建築のために大量の素材が用意されていることを保証している。しかしピタゴラスの定理はさらに幅広い応用をもち、より実りある議論へとつながる。
まず注目すべきは、ピタゴラスの議論がより長い射程をもつ拡張に耐えること、その仕組みをわずかに変更するだけで非常に多種多様な「無理数」に適用できることである。われわれはほとんど同じ方法によって
$\sqrt{3}$, $\sqrt{5}$, $\sqrt{7}$, $\sqrt{11}$, $\sqrt{13}$, $\sqrt{17}$
が無理数であることを(テオドロスが実行したとみられるように )証明できるし、また(テオドロスの到達点を超えて)$\sqrt[3]{2}$や$\sqrt[3]{17}$が無理数であることも証明できるハーディ、ライトによる『数論入門』第4章を参照。ピタゴラスの論法のさまざまな一般化、およびテオドロスに関する歴史的観点からの疑問が扱われている。。
ユークリッドの定理は、整数の算術体系を明快な形で構築するための十分な素材があることを示している。ピタゴラスの定理とその拡張は、そのような算術体系を構築してもなお、需要に対して十分とはいえず、われわれの注意を惹く測りえない量がたくさん存在することを意味している。正方形の対角線は最も単純な例である。ギリシャの数学者たちは、この発見が真に重要であることを直ちに認識した。彼らは初め(おそらく「常識」のもたらす「自然な」原理に従って)同種のすべての量は通約可能であること、つまりたとえばどんな二つの長さもある共通単位の倍数であることを仮定し、その仮定にもとづいて比例関係の理論を構築した。ピタゴラスの発見はこの基礎の不安定さを明らかにし、ユードクソスによるもっと深い理論をもたらした。『原論』の第V巻に述べられたこの理論は、現代の多くの数学者によってギリシャ数学の最高到達点とみなされている。ユードクソスの理論はその精神において驚くほど現代的なものだ 。数学解析の革命をもたらし、近年の哲学にも大きな影響を与えた現代的な無理数論の、その始まりと考えることもできる。
そういうわけで、二つの定理の〈真剣さ〉に疑いはない。したがってまた、これらの定理に〈実際上の〉重要性がまったくないことは指摘に値する。実際上の応用においては、私たちは比較的小さな数だけを問題にする。天文学と原子物理学のみが「大きな」数を扱うが、これらの学問のもつ実際的な重要性は現在のところ、最も抽象的な純粋数学と比べて、ほんのわずかに大きいにすぎない 。私は技術者が必要とする精度が最高でどのくらいであるか知らない——10桁もあれば十分であろう。すると
3.14159265
($\pi$の小数点以下8桁までの値)とは10桁の数の比
$\displaystyle\frac{314159265}{1000000000}$
である。1,000,000,000より小さい素数は50,847,478個ある 。それで技術者にとっては十分であり、残りの素数がなくたって彼は満足なのである。ユークリッドの定理についての議論はこれで完了した。ピタゴラスの定理については、無理数が技術者の興味の対象外なのは明らかなことである。なぜなら彼の関心事は近似のみであり、すべての近似は有理数だからだ。
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〈真剣な〉定理とは、〈重要な〉観念を含むような定理のことをさす。したがって、数学的観念を重要なものたらしめる特質について、踏みこんだ分析を試みるべきなのだろう。しかしこれはきわめて難しく、私には、あまり価値のない分析しか与えることができそうにない。私たちは、試金石となる二つの定理についてそうであるように、〈重要な〉観念は、見るだけでそうと認識できる。だがその認識能力を得るには相当に高度な数学的洗練が必要だし、長い年月を数学的観念とともに過ごすことによってしか得られない種類の熟達もまた、相当な程度要求される。やはり私は何らかの分析を試みなければなるまい。そして十分とはいえないにしても、ある程度は堅固で明晰な分析を与えることが可能に違いない。ひとまず、本質的と思われるものが二つある——ある種の〈一般性〉と、ある種の〈深さ〉だ。しかしいずれの特質も、正確に定義するのはまったく容易ではない。
重要な数学的観念、真剣な数学の定理は、次に述べる意味で〈一般性〉をもたねばならない。それに該当する数学的観念は、さまざまな数学的構成物の構成要素でなければならず、多種多様な定理の証明に用いられなければならない。それに該当する数学の定理は、最初はずいぶん特殊な形で述べられたとしても(ピタゴラスによる定理のように)、大幅な拡張の可能性をもち、同種の定理群における典型的な存在でなければならない。その証明によって明らかにされる諸関係は、数多の異なる数学的観念を結びつけるものでなければならない。今述べたことは非常に曖昧で、多くの但し書きを必要とする。しかし、これらの特質を顕著に欠いた定理の真剣さが疑わしいことをみてとるのは簡単だ。算術の分野には孤立した疑問にしか関係しないような定理がたくさんあるから、そこから例をとればよい。ここではラウズ・ボールの『数学的娯楽』第11版、1939年(H. S. M. コクセターによる改訂版)。 から、ほとんど気まぐれに二つの例を引いてこよう。
(ア)4桁の数のうちで、 8712と9801だけがその「反転」の整数倍になっている。つまり
$8712=4\cdot 2178$, $9801=9\cdot 1089$
であり、10,000未満の数で同じ性質をもつものは他に存在しない。
(イ)その各桁の3乗の和に等しい数が(1より後には)4個だけある。すなわち
$153 = 1^3 + 5^3 + 3^3$, $370 = 3^3 + 7^3 + 0^3$,
$371 = 3^3 + 7^3 + 1^3$, $407 = 4^3 + 0^3 + 7^3$
ということである。
これらの事実は奇妙なことではあって、パズル欄にはもってこいだろう。きっと素人の読者を楽しませることはできる。しかし、数学者の強い興味を惹くものは何もない。証明は難しくもないし興味深くもなくて、単に少々面倒なだけである。これらの定理には真剣さがない。その明らかな理由の一つは(最も重要なものではないかもしれないが)、定理の主張および証明がいずれも極端に特殊であって、いかなる重要な一般化も許さないことである。
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〈一般性〉というのは曖昧で、いくぶん危険な言葉でもあるから、われわれの議論に過大な位置を占めることのないよう気をつけなければならない。この言葉は数学自体の中でも数学について書かれた著作の中でもさまざまな意味で用いられているが、それらの意味の中には、論理学者たちが特別に強調するのはまったく正当なことではあるけれども、しかし今のわれわれには完全に関係がないようなものもある。その意味を説明するのは容易である。またその意味にもとづくと、すべての数学の定理は等しく完全に〈一般的〉である。
ホワイトヘッドは、「数学の確かさは、その完全な抽象的一般性に依拠している」と述べている『科学と現代世界』33ページ。 。われわれが$2+3=5$と主張するとき、われわれは3グループの「もの」のもつ関係性を主張している。それらの「もの」とはリンゴというわけでもなく硬貨というわけでもなく、どんな特定のものでもなく、単なるものであり、何でもいい「もの」なのだ。上の主張の意味は、グループの構成要素の個別性からは完全に独立である。「$2$」、「$3$」、「$5$」、「$+$」、「$=$」といったすべての数学的な「対象」、「存在」、「関係」は、またそれらが現れるすべての数学的命題は、完全に抽象的だという意味において完全に一般的である。ホワイトヘッドの言葉には過剰な一単語があったといえる。なぜなら、この意味での一般性というのは、抽象性そのものだからだ 。
〈一般性〉という語がもつこの意味は重要だし、論理学者が強調するのはまったく正しい。というのは、この意味は、もっと見識があってよいはずの多くの人々が忘れがちな、ある自明の理を表現しているからだ。たとえば、天文学者や物理学者は、現実の宇宙が特定の振る舞いをせねばならないことについて「数学的証明」を得たとしばしば主張する。そのような主張はすべて、文字通りに解釈するならば、完璧に無意味である。日食が明日起こることを数学的に証明するのは原理的に不可能だ。なぜなら日食は、あるいは物理現象は一般に、数学の抽象的世界を形作る要素ではないからである。このことは、彼らがどれほど多くの日食を正確に予言してきたとしても、すべての天文学者が認めざるをえないことだと私は思う。
しかし、われわれが今この種の〈一般性〉を問題にしているのでないことは明らかだ。われわれは複数の数学の定理の間にある一般性の違いをみいだそうとしているのだが、ホワイトヘッドの意味ではそれらは同程度に一般的である。「自明な」定理として15節に挙げた(ア)と(イ)は、ユークリッドやピタゴラスによる定理とまったく同じだけ〈抽象的〉あるいは〈一般的〉だし、チェス・プロブレムも同様である。チェス・プロブレムにおいて、駒が白色と黒色なのか赤色と緑色なのかとか、物理的な「駒」の存在といったことは意味をもたない。熟練者が軽々と頭の中に納めるものと、私たちが盤の助けを借りて苦労しながら再現するものは、同じ問題なのである。盤と駒は私たちの鈍重な想像力を刺激するための道具にすぎない。それらは、数学の講義に登場する定理にとって黒板とチョークがそうであるのと同程度にしか本質的なものではない。
今われわれがみいだそうとしているのは、すべての数学の定理に備わっているこの意味の一般性ではなくて、もっと繊細でとらえどころのない種類の一般性である。15節で私が粗い言葉によって説明しようとしたのはそれであった。そしてわれわれはこの種類の一般性にも、必要以上に重きをおかないよう注意しなければならない(ホワイトヘッドを初めとする論理学者たちはその弊に陥りがちだと私は思う)。現代数学の築いた素晴らしい成果というのは、単なる「巧妙な一般化の上に巧妙な一般化を積み重ねたもの」『科学と現代世界』44ページ。ではない。ある程度の一般性は一級品の定理には付き物だが、過度の一般性は必然的に無味乾燥さをもたらす。「あらゆるものはそれ自身であって、他のものではない」 。ものごとの差異は、それらの類似と同じくらい興味深い。私たちは友人を、好ましい人間的特質をすべて備えているから選ぶのではなく、彼らが、彼らがそうであるような人間であるから選ぶのだ。数学でも同じである。過度に多くの対象が共有するような性質は、たいして面白くないことが多い。そして数学的観念も、十分な個性がなければ、ぼんやりとしたものになってしまう。それはともかく、ホワイトヘッドの文句の中には、私の考えに沿ったものもある。「実りある概念というのは、適切な特殊性によって制限される大きな一般性である」『科学と現代世界』46ページ。。
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重要な観念について私が課した第二の特質は〈深さ〉だったが、その定義を与えるのはさらに困難である。これは〈難しさ〉といくらか関係がある。通常、〈深い〉観念は理解するのが難しい。しかしそれらは同じというわけでは全然ない。ピタゴラスによる定理とその一般化の根底にはそれなりに深い観念があるが、それを難しいと感じる現代の数学者はいないだろう。一方で、本質的には表面的でしかないのに、証明は相当に難しい定理もある(多くの「ディオファントス型」の定理、すなわち方程式の整数解についての定理がそうであるように)。
私には、数学的観念は層をなしているように思われる。各々の層に属する観念は、その層および上下の層に属する観念との関係性のなす複合体によって、他と結ばれているのである。低層に行けば行くほど、観念は深くなる(そして一般に難しくなる)。かくて「無理数」の観念というのは整数の観念よりも深い。それゆえ、ピタゴラスの定理はユークリッドの定理よりも深い。
整数同士の関係性、もしくはある特定の層に属する対象同士の関係性に注目しよう。するとある関係性は、たとえば整数のある性質は、より低層の内容に関する知識にまったく依存せずに、完全に理解できたり、認識、証明できるということも起こる。そうして、ユークリッドの定理は整数の性質のみの考察から証明されたのだ。しかし整数に関する定理には、もっと深く掘り進んで低層での現象を考えなければ正しく味わえず、まして証明することもできないものも多い。
そういった例は、素数の理論にたくさんみられる。ユークリッドの定理はとても重要だが、さほど深いわけではない。無限に多くの素数の存在を証明するのに「整除性」より深い概念は必要ない。しかしこの問題に対する答えを知った瞬間に、新たな問題群が首をもたげる。素数は無限に存在するが、その無限はどう分布するだろうか。大きな数$N$が、たとえば$10^{80}$とか$10^{10^{10}}$といった数宇宙に存在する陽子の個数は$10^{80}$程度と見積もられている。$10^{10^{10}}$を通常の記法で書くと、平均的なサイズの本で50,000冊程度を占める。が与えられたとき、その$N$より小さな素数はどれくらいあるだろうか14節で触れたように、1,000,000,000より小さい素数は50,847,478個ある。これがわれわれの正確な知識の限界である。。これらを問題とするとき、われわれは自分たちがまったく異なる場所にいることを知る。われわれはそれらの問題に、驚くほどの正確さをもって答えることができる。しかしそれは、ずっと深く掘り進んで、いったん整数たちよりも低層に達し、現代的な函数論という最強の武器を使うことでなされる。それゆえ、われわれの問題の答えを与える定理(いわゆる「素数定理」)は、ユークリッドやピタゴラスのものよりもずっと深い定理である。
もっと例を挙げることもできるが、〈深さ〉の概念はそれを認識できる数学者にとってもとらえどころがないのであり、それ以外の読者には、これ以上私が説明を加えてみても大きな助けになるとは思われない。
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私は11節で〈真の数学〉とチェスとの比較を始めたが、そこで触れたきり、そのままになっている問題がもう一つあった。われわれはもう、真の数学の定理が、その実質、真剣さ、重要性の面において圧倒的な優位性をもつことを前提としてよいだろう。そして、訓練された知性にとっては、数学の定理が美の面においてさえ優位性をもつことも、ほとんど同様に明らかである。だがこの優位性を定義したり、その在処を見極めることはたいへん難しい。というのは、チェス・プロブレムの主要な欠陥は単なる〈自明さ〉であり、その点における差異がもっと純美学的な差異と混同され、判断が惑わされるからである。ユークリッドやピタゴラスのものに類する定理にみられる〈純美学的〉な特質とは何だろうか。私は断片的な二、三の指摘をするにとどめる。
二つの定理には(ここで私は、当然ながらそれらの証明をも含めている)、いずれにも非常に高度な〈意外性〉があり、また〈必然性〉、〈効率性〉もある。二つの定理の論理展開は、思いもよらない奇妙な形をしている。使われている武器は、それらの結果のもつ長い射程と比べると、ひどく子供じみた単純なものに思われる。しかし結論は必然であって、逃げ場はないのだ。議論に入り組んだところはない——いずれの定理も一撃で陥落する。このことは、もっとはるかに難しい定理の多くについても、それを深く味わうにはとても高度な技術的訓練が必要になるけれども、同様なのである。私たちは数学の定理の証明において、〈変奏〉がいくつも現れることを好まない。〈総当たり法〉は、いかにも、退屈な数学的議論の形態の一つである。数学の証明は、単純でくっきりとした星座のようなものであるべきで、天の川にまぎれたぼんやりした星屑の集まりであってはならない。
チェス・プロブレムにも意外性はあるし、ある種の効率性もある。つまり、各々の手に驚きがあることや、すべての駒が何らかの役割を果たすことは不可欠である。しかしチェス・プロブレムのもつ美学的効果は集積的なものである。(そのプロブレムがあまりに単純なつまらないものでないかぎり、)要となる一手の後にはたくさんの手筋が存在していて、各々の手筋が個別の対応法をもつべきである。「もしP-B5ならばKt-R6、もし○○ならば○○、もし○○ならば○○」といった具合に。対応法があまり分かれないのなら、美学的効果は損なわれる。これらは本物の数学には違いないし、それなりの美点もある。だがこれは、あの〈総当たりによる証明〉であって(しかも場合分けによって現れる各々の状況には、根本的にはたいした違いはない私の理解によれば、プロブレムが同種の手筋をたくさんもつことは美点であると考えられている。)、真の数学者が軽蔑する傾向にあるものに他ならない。
以上の議論は、私には、チェス・プレイヤー自身の感性によっても補強されるように思われる。名局名棋戦を残してきた、チェス・マスターとよばれるようなプレイヤーは、本心ではチェス・プロブレム作家の純数学的創作を蔑んでいるに違いない。彼は自分の中にそういった創作をたくさん秘めていて、いざとなれば披瀝することもできる。「彼がこうしてこう動いた場合には、私はこうしてこうする詰み筋を読んでいた」。しかしチェスの「名局」とは、第一に精神的なものである。訓練された知性同士の激突であり、ただのちっぽけな数学的定理の集まりではないのだ。
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そろそろオクスフォードでの弁明に立ち戻り、6節で後回しにしたいくつかの点を、もう少し丁寧に検討しなければならない。これまで述べたことから、私の関心が数学の創造的芸術としての側面だけにあることは明らかだろう。だが、他にも考察すべき問題はある。特に数学の〈有用性〉(あるいは非有用性)の問題をめぐる議論には混乱がみられるから、これは取り上げるべきである。われわれはまた、数学が果たして実際のところ、私がオクスフォードでの講演で前提とした程度に〈無害〉なものなのかという点についても考えねばならない。
科学や芸術の一つの分野が〈有用〉であるという表現を、その発展が、たとえ間接的にであれ、人間の物質的繁栄に寄与したり幸福を生み出すことを意味するものとして用いることができよう。ただし幸福という語を、ここでは浅薄で平凡な用法で用いている。そうすると、医学や生理学は苦しみをやわらげるので有用だし、工学は家や橋を造り生活水準を上げる助けになるので有用だ(もちろん工学は害をなすこともある。しかし、目下それは問題にしていない)。さて、ある種の数学は、確かにこういった形で有用である。技術者の仕事は数学の実際的知識をかなりもたないことには成り立たないし、生理学においてさえ数学は応用されつつある 。したがってわれわれは、これを数学の弁護のための根拠とすることができる。この根拠は最良ではないかもしれないし、非常によいとさえもいえないかもしれないが、一考すべきものではある。より〈高尚な〉数学の利用法、つまりすべての創造的芸術と共通する利用法は、そういうものが存在するとしても、ここでの考察とは無関係である。数学は、詩や音楽がそうであるように、「精神の気高さを促進し維持する」。そうして数学者の幸福や、またその他の人々の幸福をも増大させる。だがそれを根拠とする数学の弁護とは、私が先ほどまでいってきた内容を詳述することでしかない。今考えるべきことは、数学の〈浅薄な〉有用性である。
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そんなものはまったく明らかだと感じられるかもしれないが、それでもしばしば、多くの誤解が生じている。というのは、特別に〈有用〉な学問といっても、それは多くの場合、大多数の人にとっては身につけても仕方がないものでしかないからだ。十分な人数の生理学者や技術者の供給は有用である。だが生理学や工学という学問を身につけることは、一般人にとって有用ではない(もちろん、それを学ぶことは他の根拠によって弁護されうるが)。私個人についていえば、純粋数学以外では、自分自身のそういった科学的知識が役に立ったことは、ただの一度もなかった。
科学的知識が一般人にとっていかに実用的価値がないか、大きな実用的価値をもつものがいかに退屈で平凡か、実用的価値がいかに名声の高さと相反するかは、まったく驚くべきほどだ。一般的な算術にある程度慣れることは有用である(かつ、もちろんそれは純粋数学である)。いくらかのフランス語やドイツ語、いくらかの歴史と地理の知識も有用だし、あるいはいくらかの経済学の知識さえもそうだろう。しかし、いくらかの化学、物理、生理学を知っていても、普通に生活を送る上では何の価値もない。私たちはガスの成分を知らずとも、それが燃焼することを知っている。車が故障したら、修理屋にもっていく。胃の調子が悪ければ、医者にかかるか薬局に行く。私たちは、経験知や他者の専門知によって生きているのである。
だがこれは脇道に逸れた話で、一種の教育論にすぎず、そんなものに興味を示すのは、息子に〈有用〉な教育を与えよとわめく親を諭さねばならない教師だけだろう。われわれは当然、生理学が有用だと述べるとき、人はみな生理学を学ぶべきだということではなく、ごく少数の専門家による生理学の発展が多くの人々の生活を快適にすることを主張するのである。われわれにとって今重要な問題は、数学がこの種の有用性をどれだけ主張できるか、どんな数学がそれを強く主張できるか、徹底的な数学の研究が、数学者の知るそれがということだが、この根拠のみによってどこまで正当化されるかである。
21
私の到達する結論は、すでに明らかであろう。そこでまず結論を独断的に述べ、それからいくらかの説明を試みよう。初等数学の大部分が、実際的にかなり有用であることは否定できない(ここで「初等」という語は、専門的数学者の用法で使われている。つまり、たとえば微分法や積分法に関する相当程度の実際的知識を含む)。これらの数学は、総じて退屈で、美学的価値に最も欠ける部分にすぎない。〈真の〉数学者による〈真の〉数学は、つまりフェルマー、オイラー、ガウス、アーベル、リーマンの数学は、ほとんど全然〈有用〉でない(これは「純粋」数学の場合でも「応用」数学の場合でもそうである)。いかなる本物の専門的数学者の人生も、彼の仕事の〈有用性〉を根拠として正当化されることはない。
だがここで、ある誤った認識について触れておく必要がある。ときおり仄めかされる言説として、純粋数学者は自身の仕事の非有用性を誇りとしており私もそういった考え方をしていると非難されてきた。かつて私は「ある科学が有用とされるのは、その発展が富の偏在を助長するとき、またはより直接的に人間生活の破壊を促進するときである」と書いたことがある。1915年のこの文は、(肯定的にも否定的にも)幾度か引用された。もちろんこれは意識的な修辞的装飾だが、しかしこれが書かれた当時には許容されたものだろう。、それが実際的応用をもたないことを鼻にかけているというものがある。この非難はしばしば、ガウスのものと伝えられる、ある不用意な発言にもとづいてなされる。いわく、数学が科学の女王であるならば、数論はその最高の非有用性によって数学の女王である——私は正確な原文をみつけることができていない。だがこのガウスの発言(本当に彼のものだとして)は、ひどく誤解されてきたのだと私は確信する。もしも数論が、何らかの実際的で、かつ明らかに称賛されるべき目的で応用されるならば、つまり生理学やあるいは化学にさえも可能であるように、人々を幸福にしたり彼らの苦しみをやわらげることに直接用いられるならば、ガウスも他の数学者も、その応用をけなしたり残念がったりするほど愚かではないはずだ。しかし、科学は善ばかりでなく悪のためにも用いられる(もちろん、戦争のときには特にそうである)。ガウスや彼に劣る数学者たちは、人間の通常の生活から遠く離れているがゆえに穏やかで清潔な存在でありつづける科学がともあれ存在すること、しかも彼らの専門分野がそれであることを、歓んでも許されるだろう。
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もう一つの誤解についても守りを固めておかねばならない。「純粋」数学と「応用」数学の間に有用性の面で大きな違いがあると考えるのは、ごく自然なことだ。だが、これは思い違いである。これら二種の数学には、すぐに説明するように明確な区別があるが、その差異は有用性にはまったく関係しない。
純粋数学と応用数学はどのように異なるのだろうか。これは明確に答えうる問いであり、数学者の間には概して一致した意見がある。私の答えに常識はずれな点はまったくないが、しかし、少々の前置きが必要である。
次節からの2つの節は、いくぶん哲学的な趣を帯びる。その哲学は深みには達しないし、私の主要な主張にとって不可欠でもない。だが、以下では日常的な語句を明確な哲学的意味をこめて用いるので、その用法を説明しておかないと、読者の混乱を招く恐れがある。
私は〈
まず、私は〈物理的現実〉という表現をするが、この「現実」とは、再びいつも通りの意味である。つまり、物理的現実というのは物質世界のことをさす。昼と夜、地震と日食の世界、物理的科学が説明しようとする世界である。
読者はここまでの私の言葉遣いには苦労しないだろう。しかしここからが難しい。私にとっては、また多くの数学者にとってもそうだと思うのだが、今述べたのとは別の現実が存在する。それを私は〈数学的現実〉とよぶ。数学的現実の性質については、数学者の間にも哲学者の間にも、いかなる共通の合意も存在しない。ある者はそれを〈心的〉なものととらえ、何らかの意味でわれわれが構築するものだと考えるが、別の者はそれは外部に存在して、われわれとは独立なものだとする。数学的現実について説得力のある説明を与えることができたら、それは形而上学の最も困難な問題の多くを解決したということに他ならない。もし物理的現実をも含めて説明することができたなら、難問のすべては解決されたことになる。
これらの問題に取り組むことは、たとえ私にそれにみあう力量があったとしてもここで望むべきではないが、つまらない誤解を防ぐために、私自身の立場を独断的に述べておこう。私は数学的現実が、われわれの外部にあると信じている。われわれの役割はそれを発見あるいは観察することであり、われわれが証明し、われわれが自らの「創造物」だと仰々しくも述べる定理は、われわれの観察の記録にすぎないと考える。これはプラトンを初めとする数多の名高い哲学者が多様な形で採用してきた見解であり、私の言葉遣いはその見解を採用する者にとって自然なものである。この哲学を受け入れない読者は、言葉遣いを変更すればよい。結論にはほとんど影響がない。
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純粋数学と応用数学の差異は、おそらく幾何学において最も明瞭に表れる。射影幾何学、ユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学といった多様な幾何学を対象とする、純粋幾何学という分野があるこの議論のためには、われわれはもちろん、数学者が「解析」幾何学とよぶものも純粋幾何学に入れる必要がある。。各々の幾何学はいずれもモデルであって、観念のなす様式であり、その様式の興味深さや美しさによって評価されるべきものである。それは多数の人々の共同作業によって作られる地図あるいは描写であり、不完全な(しかしそれが及ぶ範囲においては正確な)数学的現実の断片である。だが今のわれわれにとって重要なことは、純粋幾何学がそれを描写していないものが,少なくとも一つあるということだ。つまり、物理的世界の時空的現実である。そのことは明らかで、疑う余地はない。なぜならば、地震や日食は数学的概念ではないからだ。
これは部外者には逆説的に感じられるかもしれないが、幾何学者にとっては自明の理である。次のような説明が理解の助けになるかもしれない。私が幾何学のある体系、たとえば普通のユークリッド幾何学の講義をしているとしよう。聴衆の想像をかきたてるため、私は黒板に図を描く。直線や円や楕円の大雑把な図である。まずはっきりしているのは、私の証明する定理の正しさは、私の図の上手さとは関係がないということだ。図の役割はただ、私の意図を聴衆に深く実感させることにあり、そのことさえできるならば、熟練の製図工によって描き直させても得るものはない。それは教育的な図版にすぎず、講義の真の主題とは異なるところにある。
もう一段階先に進もう。私の講義する部屋は物理的世界の一部であり、それ自身が様式をもっている。その様式の研究や、物理的現実における一般的な様式の研究は、それ自身として〈物理的幾何学〉とでもよぶことのできる一つの分野である。さてここで、室内に猛烈な発電機が、あるいは巨大な引力を及ぼす物体がもちこまれたとしよう。そのとき、物理学者は室内の幾何が変更されたといい、物理的様式の全体がわずかに、しかし決定的に歪められたという。ところで私が証明した定理は誤ったものになるだろうか。いや、私の与えた証明が影響を受けたなどと考えるのは馬鹿げている。それはシェイクスピアの戯曲が、読者があるページに紅茶をこぼしたから変化すると考えるようなものである。戯曲はそれが印刷された本のページからは独立しており、「純粋幾何学」は講義室やその他の物理的世界のありようから独立している。
これは純粋数学者の見方である。応用数学者や数理物理学者は当然ながら異なる見方をもつが、それは彼らが物理的世界に夢中であり、それにはそれ自身の構造や様式があるからだ。その様式は純粋幾何学の様式ほど正確には記述できないが、何らかの重要なことを述べることはできる。われわれは、物理的世界の構成要素同士の関係性を、あるときはそれなりに正確に、またあるときは非常に大雑把に記述し、それを純粋幾何学の体系における構成要素同士の厳密に正確な関係性と比較することができる。これらの二種の関係性の間に、ある種の類似をみいだすこともあるだろう。そのとき、純粋幾何学は物理学者の関心の対象となる。純粋幾何学はそのかぎりにおいて、物理学的世界の「現実に合致する」地図を与えるのだ。幾何学者は物理学者に、選択の候補となるさまざまな地図を提供する。おそらくある地図は他の地図と比べてよりよく現実に合致するだろうから、その地図のもととなる幾何学は、応用数学にとって最も重要な幾何学となる。あるいは純粋数学者すらも、その幾何学を好む気持ちが高まるのを感じるかもしれない。というのは、物理学的世界への興味をまったくもたないような純粋な数学者はいないからだ。だが、その誘惑に屈服してしまったならば、彼は純粋数学的な立場から離れることになるのである。
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ここでなすべき注意がもう一つある。物理学者には逆説的に感じられるかもしれないが、その度合いは18年前よりも小さくなっていると思う。1922年に大英協会の分科会Aで行った講演と ほとんど同じ言葉を使って説明しよう。当時の聴衆の大多数は物理学者だったので、そのときは少々挑発的な表現をしたかもしれないが、しかし私は今も、そこで述べた本質的な内容は正しいと思っている。
私は次のように始めた。数学者と物理学者の立場には一般に思われているほどの違いはおそらく存在せず、最も重要な違いは私がみるところ、数学者のほうが現実に、より直接的に接触しているということである。これは逆説的に思われるかもしれない。というのは、物理学者の取り組む主題のほうが普通は「現実的」といい表されるからだ。しかし少し考えれば、物理学者にとっての現実が、それが何物なのかはともかく、人の備える常識が本能的に現実というものに対して求める属性を、ほとんど、もしくはまったくもっていないことが明らかになる。一脚の椅子は回転する電子の集まりかもしれないし、神の意識の中にある一つの観念かもしれない。各々の解釈にはそれぞれに利点があるが、いずれも常識の示すことからはかけ離れている。
そして次のようにつづけた。物理学者も哲学者も、〈物理的現実〉とは何かということについて、何らの説得力ある説明をも与えてはいない。あるいは物理学者が、混迷した事実や感覚の総体から出発して、彼が〈現実〉とよぶものの構築にどのようにたどり着くのかということについてもそうだ。したがって、われわれは物理学の主題が何なのか、知っているとはいえない。しかしそれは、物理学者の目指すことを大まかに理解するのを必ずしも妨げない。物理学者はもちろん、眼前にある雑然としたむき出しの事実の群れを、抽象的関係性のなす何らかの明確で整然とした体系によって統制しようとしているのである。そしてその体系は、数学からのみ借りてくることができる種類のものだ。
一方で数学者は、彼自身の数学的現実に取り組んでいる。この現実については、22節で説明したように、私は「実在論的」な見方を採用し、「観念論的」な見方は採らない 。いずれにせよ(そしてこれが私のおもな論点だった)、この実在論的な見方は、物理的現実よりも数学的現実についてずっと確からしいのである。それは、実は数学的対象のほうが、見た目の姿そのものであるからだ。一脚の椅子や一個の星は、みかけとはいささかも似ていない——考えれば考えるほど、その輪郭はまわりを取り囲む感覚のもやに包まれ、ぼやけていってしまう。だが「2」や「317」は、感覚とは関係がなく、その性格は綿密に調べるほどに明確に立ち現れる。現代物理学は観念論的哲学における何らかの枠組みに最もよくあてはまるのかもしれない。私はそれを信じてはいないが、そう主張する高名な物理学者たちはいる。その一方で、純粋数学は、すべての観念論をつまずかせる石であるように私には思われる。317が素数なのはわれわれがそう考えるからではなく、あるいはわれわれの意識が何らかの特定の形をなしているからではなく、それがそうだからそうなのだ。数学的現実がそのようにできているからなのだ。
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以上の純粋数学と応用数学についての区別は、それ自身としては重要だが、数学の〈有用性〉に関するわれわれの議論にはほぼ無関係である。21節で私は、フェルマーを初めとする偉大な数学者による〈真の〉数学、すなわち最高のギリシャ数学のような永遠の美的価値をもち、最高の文学と同様に、幾千年の時を経てもなお幾千もの人々に情感に訴える深い満足をもたらしつづけるという意味で、不滅の存在となった数学について触れた。それらを創った人々は主として純粋数学者であるが(当時その区別は今ほどはっきりしたものではなかったに違いないが)、私は純粋数学だけを考えていたわけではない。マクスウェル、アインシュタイン、エディントン、ディラックを、私は〈真の〉数学者のうちに含めている。近年における応用数学の偉業は相対論や量子力学においてなされたが、これらの分野は、現時点では少なくとも、数論とほとんど同じくらい〈有用〉でない。善なり悪なりのために利用されるのは、純粋数学の場合と同様に、応用数学でも最も退屈で初等的な部分である。これは時とともに変わるのかもしれない。行列、群といった純粋数学の理論が現代物理学に応用されることを予測した人はいなかったのだから、〈高尚な〉応用数学の一部が予期せぬ形で〈有用〉となることもあるかもしれない。しかし現時点での証拠がさし示す結論は、純粋数学にしても応用数学にしても、実際の生活に役立つのは平凡で退屈な部分だけだということだ。
エディントンが、〈有用な〉科学の魅力の乏しさについてよい例を挙げたことがあった。あるとき大英協会の会議がリーズで開かれることになり 、会員は「重羊毛」産業における科学の応用に関する話題を何か期待しているだろうということになった。しかし、そのために企画された講演と実演は大失敗に終わった。会員は(リーズの市民であるか否かによらず)面白がりたかったのであり、「重羊毛」は面白い話題では全然なかったのだ。だからそれらの講演の出席者数は惨憺たるものだった。しかしクノッソスの遺跡発掘作業 、あるいは相対論、あるいは素数の理論について講演をした人々は、その話題に惹かれてやってきた聴衆の多さに喜ぶこととなった。
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数学のうち、どの部分が有用であろうか。
まず、大学以前で習う数学の大部分、すなわち算術、初等代数、初等的なユークリッド幾何学、初等的な微分法と積分法である。「専門の生徒」に対し講義されるような内容の一部、たとえば射影幾何学は、除く必要がある。応用数学においては、基礎的な力学も有用だ(電気学は、大学以前の学校で教えられる範囲では、物理学に類別されるべきである)。
次に、大学数学もある程度の割合は有用である。つまり、学校数学をより研ぎ澄まされた技術によって発展させたにすぎない部分のことだ。電気学や流体力学といった、物理的な分野の一部もそうである。また、次のことも心に留めておくべきだ——知識を多く蓄えておくことは常に優位をもたらすのであって、もし最も経験豊かな数学者の知識が、彼に不可欠な最小限のものになってしまったら、彼の能力は深刻な制限を受けるだろう。そういう理由で私たちは、各々の項目についていくらかのことを学ばねばならない。だが原則的な結論としては、そのような数学は、有能な技術者や平均的な物理学者に必要であるがゆえに有用なのだとしてよかろう。それらの数学はとりたてて美的価値をもっていないといっても概ね同じことである。たとえばユークリッド幾何学が有用なのは、その退屈な部分にかぎられる——われわれには平行線公準や、比例の理論や、正五角形の作図法は不要である。
すると次の奇妙な結論に達する。純粋数学は全体として、応用数学よりも明確に有用なのである。純粋数学者は美的側面だけでなく、実用的側面においても優位性をもっているように思われる。何よりも有用なのは技術であり、数学的技術はおもに純粋数学を通じて教授されるからだ。
いうまでもなく私は、数理物理学という、圧倒的な問題を備え、最高級の想像力が咲き乱れてきた絢爛たる分野を貶めようとしているのではない。しかし、普通の応用数学者の立場というのは、ある意味で少々痛ましくはないだろうか。彼が有用な存在であろうとすれば平凡な仕方で仕事をしなければならないし、彼が高みに登ることを望んでも想像を自在に羽ばたかせるわけにはいかない。「想像上の」宇宙は、この馬鹿らしい姿をした「現実の」宇宙よりはるかに美しい。応用数学者の想像力による最良の産物のほとんどは、それが生まれた瞬間に放棄されることになる。それが現実に適合していないという、残酷だが十分な理由によって。
原則的な結論は、まったく十分にはっきりしている。もしも有用な知識というものが、われわれがひとまず認めたように、現在か比較的近い将来において人類の物質的な豊かさに貢献するものをさし、したがって単なる知的満足とは無関係なのだとすれば、高度な数学のほとんどすべては有用でない。現代的な幾何学や代数学、数論、集合論や函数論、相対論、量子力学——どれも五十歩百歩で有用性の基準には達しないし、有用性を根拠としてその人生が正当化されるような真の数学者はいない。これが基準であるのならば、アーベル、リーマン、ポアンカレは一生を無駄にしたのだ。人類の豊かさに対する彼らの貢献は無視できる程度でしかなく、彼らがいなかったとしても、世界は今と同じ程度に幸せな場所だったことだろう。
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私の〈有用性〉の概念は狭すぎると反論することも可能と思われる。有用性を〈幸福〉や〈快適さ〉のみによって定義し、数学の全般的な〈社会的〉影響を無視していると。後者は近年さまざまな著者によって重視されている——背景とする共感の質には大きな隔たりこそあるが。たとえばホワイトヘッド(彼は数学者だった)は「数学的知識の人間生活、日々の仕事、社会の効率性に及ぼす巨大な影響」について語り、ホグベン(彼はホワイトヘッドと異なり、私や他の数学者が数学とよぶものについて共感をもたない)は「量や順序に関する文法であるところの数学に関する知識がなければ、万人が余暇を楽しみ、誰も困窮しない、そんな合理的社会を計画することはできない」と述べる(そして、この同じ影響について何度も繰り返す)。
だが私には、これらの雄弁が数学者を安堵させると心から信じることができない。二人の言葉は猛烈に誇張されており、どちらも明白な差異を無視している。ホグベンの場合には、彼はもちろん数学者ではないのだから、それはごく自然である。彼のいう「数学」とは彼の理解できる数学のことであって、私が「学校」数学とよんだものだ。この数学には私も認めたように多様な利用法があり、望むならばそれを「社会的」といってもよいだろう。ホグベンはそれを、数学的発見の歴史に関する多くの興味深い指摘によって補強している。この点において彼の本には価値がある。それらの指摘により、今までもこれからも数学者ではない多くの読者に対し、彼らが思うよりも数学は豊かな内容をもつのだということを明らかにしているからだ。だがホグベンは、〈真の〉数学についての理解をほとんどもっていないし(ピタゴラスの定理、あるいはユークリッド、アインシュタインについての彼の記述を読めば誰でもすぐにわかる)、共感はもっともっていない(彼はそれを示すために惜しみない労力を費やす)。彼にとって、〈真の〉数学とは、軽蔑と哀れみの対象にすぎない。
ホワイトヘッドの場合には、問題は理解や共感の不足にあるわけではない。しかし彼は熱心さのあまりに、彼がよく知っているはずの違いを忘れている。「日々の仕事」や「社会の効率性」に「巨大な影響」をもつのは、ホワイトヘッドのではなくホグベンの数学だ。「普通の人の普通の用事」に使うことのできる数学は無視できるほどのものであり、経済学者や社会学者の使う数学も「学問の基準」には達しない。ホワイトヘッドにとっての数学は、天文学や物理学には深く影響するかもしれない。哲学においても、はっきり認められるほどの影響がありうる——ある領域における深い思考は、別の領域における深い思考に容易に影響を及ぼす。だが他の学問には、ごくわずかにしか影響しない。ホワイトヘッドにとっての数学の「巨大な影響」というのは、人間一般にではなく、ホワイトヘッドのような人物のみにもたらされてきたのだ。
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そういうわけで、数学には二種類ある。真の数学者による真の数学と、さしあたって〈自明な〉数学と以下よぶものだ。自明な数学は、ホグベンや彼の一派の感性には響くような議論によって正当化されることもあろう。しかし、真の数学に対してはそのような弁護はなく、正当化されるとすれば芸術としてのみ正当化されるのである。この見方には逆説的な点も独特な点もまったくなく、数学者の間では共有された見方である。
だが、まだ考えるべき問題が一つある。われわれは、自明な数学は概して有用であり、真の数学は概して有用でないと結論した。自明な数学はある意味で善をなし、真の数学はその意味で善をなさない。しかしまだ問うべきことがある——どちらの種類の数学が害をなすかである。平和な時代においては、どんな種類の数学であれ、それが大きな害をなすという考えは逆説的であろう。そうしてわれわれは自然に、戦争に対する数学の影響を考察することになる。この問題について冷静に議論することは現在は特に難しいから、私はこの問題を避ける選択をすべきだった。だが何らかの議論は必要と思われる。幸いなことに、それは手短に済ませられる。
真の数学者が心の安らぎを覚えるような一つの結論がある。真の数学は、戦争には影響を及ぼさない。数論や相対論を戦争に役立たせる方法は誰もみいだしていないし、これからも長い間、みいだされるとは思われない 。弾道学や航空力学といった、戦争のためにつくられ、比較的高い技術を要する応用数学の分野が存在するのは事実である。これらを〈自明〉とするのは難しいかもしれないが、〈真の〉というほどではない。これらの分野はまったく、身の毛がよだつほど醜く、耐えがたいほど退屈である。リトルウッドでさえ弾道学を見苦しくないものにはできなかったのだし 、彼にできなかったのなら誰に可能だというのか。したがって真の数学者には負い目はない。その業績のもちうる価値を落とすものは何もない。オクスフォードで私が述べたとおり、数学は「無害な」職業である。
その一方で、自明な数学は戦争における多くの応用をもつ。それなしには、たとえば砲術の専門家や航空機の設計士の仕事は成り立たない。そして、そういった応用が全体としてもたらす影響は明白である。数学は、現代的、科学的な「全面」戦争の実現を手助けしている(物理学や化学の場合ほど明らかではないにしても)。
これは一見すると残念なことのようだが、実際の当否はそれほど明らかではない。現代の科学的戦争については、二つの正反対の見方があるからだ。その一つは当然存在する見方で、科学のもたらす影響は戦争において、単純に、その恐ろしさを拡大しているとするものである。戦闘にかり出される少数の人々の苦痛を増大させ、また苦痛の及ぶ範囲をその他の人々にも広げるというものだ。これは自然かつ伝統的な見方である。しかし、それとは大きく違いながらも同様に批判に耐えうる見方が、ホールデンの『カリニコス』でJ. B. S. ホールデン『カリニコス——化学戦争の正当化』(1924年)。強調されている。つまり次のような主張だ——現代の戦争は科学以前の戦争よりも恐ろしさの度合いが小さいとか、爆弾は銃剣よりもおそらく慈悲深いとか、軍事目的の科学が生み出した催涙ガスやマスタード・ガスは歴史上最も人道的な武器かもしれないとか、伝統的な見方は考えの浅いセンチメンタリズムこの言葉は一般にひどく誤用されているが、そのことで問題に予断をもたらすことを私は望まない。この言葉は、ある種のバランスを欠いた感情をさすものとして適切に用いることができる。もちろん、「センチメンタリズム」ということで他者の慎み深い感情を揶揄し、「リアリズム」ということで彼ら自身の残酷さを隠す人も多く存在する。のみに基礎をおいているといったものである。さらには(これらはホールデンの議論に含まれるものではないが)、科学がもたらすとされる危険の平均化は長い目でみれば好ましいとか、一般市民と軍人の生命の価値、あるいは女性と男性の生命の価値に差はないとか、何が起こるにせよ戦争の残酷さが特定の人々に集中するよりはましだとか、要するに、戦争が「全面的」になるのは早ければ早いほどいいのだと力説することもできるだろう。
どちらの見方が真実に近いのか、私にはわからない。これは緊急かつ現在進行中の問題だが、ここで議論することもあるまい。この問題は〈自明な〉数学にのみ関係するのであり、それを弁護するのは私というよりホグベンの仕事だ。彼の数学は少なからず汚されているかもしれないが、私の数学には影響はない。
いや、本当は、さらに述べるべきことがある。というのは、真の数学が戦時に果たしうる役割がとにかく一つあるからである。世界が狂気の中にあるとき、数学者は数学の中に、これ以上ない鎮痛剤をみいだすだろう。それは数学が、すべての芸術と科学の中で、最も禁欲的で最も彼方にある からだ。数学者はあらゆる人々の中で最も容易に、バートランド・ラッセルのいう「私たちの高貴な衝動のうちの少なくとも一つが、現実という異邦での陰鬱な生活から最もよく逃れられる場所」に避難することができる。残念ながら一つの重大な留保が必要であるが——彼は老いすぎていてはならない。数学は瞑想的ではなく創造的な学問である。創造する力や欲望を失った者には、たいした慰めを与えはしない。そしてその時は数学者には非常に早く訪れる。これは悲しむべきことだが、そうなったなら彼はいずれにせよ瑣末な存在に過ぎないのであり、彼を気にかけるのは愚かなことであろう。
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締めくくりにあたって私の結論をまとめるが、それをより個人的な形で行いたいと思う。私は冒頭で、自分の分野を弁護する者は、自分自身を弁護することになるだろうと述べた。そして専門的数学者の人生に関する私の正当化は、根本的には私自身の正当化にならざるをえないだろうと。したがってこの結びの節は、本質的に、私の自叙伝の断片になる。
私には、数学者以外の何かになりたいと思った記憶がない。自分の才能がその方向にあることは幼いころから明らかだったと思うし、年長者たちの判断を疑う気持ちは生じなかった。子供だったころ、数学に対し何らかの情熱を感じた記憶はなく、数学者の職業人生についておそらく私が思い描いていたイメージは、高貴さからは程遠かった。私は数学を、ただ試験や奨学生資格と結びつけて考えていた。私は他の少年たちを打ち負かしたいと望み、私が完膚なきまでにそれを実行できるのは数学においてであると思われた。
15歳のころになって、私の野心は(だいぶ風変わりな仕方で)大きく転換した。「アラン・セント・オービン」「アラン・セント・オービン」とはフランシス・マーシャル女史であった。マシュー・マーシャルの妻である。による『トリニティのフェロー』という、ケンブリッジの大学生活と思われるものを扱ったシリーズの一冊があった。その本はマリー・コレリの本の大部分より劣悪だと思う
。しかし、ある賢い少年の想像力に火を点すような本は、まったく駄目な本だということにもならないだろう。その本には二人の主人公がいた。第一の主人公はフラワーズといい、ほとんどあらゆる方面で秀でた存在で、第二の主人公ブラウンは、それに大きく劣る器だった。フラワーズとブラウンは大学生活の中で多くの危険な目に遭う。中でも最悪だったのは、チェスタトン
の、ベレンデンという魅力的だが邪悪な若い姉妹が仕切る賭博サロンだったチェスタトンには実際に特筆すべき美点がない。。フラワーズはそういった危機をすべてくぐり抜け、セカンド・ラングラー、そしてシニア・クラシックとなり
、自動的にフェローの地位を得た(それはそうなるだろうと私も思う)。ブラウンは誘惑に負け、両親を破産させ、酒に溺れ、雷雨の中で下級学生監の祈りによってなんとか精神錯乱から救われ、やっとのことで
フラワーズは十分に立派なフェローではあったが(「アラン・セント・オービン」が描くことのできた範囲において)、まだ未熟な知性しかもたない私にさえも、彼を賢いと認めるのはためらわれた。彼にすらこれらができたのなら、自分にできないはずがあろうか。特に、最後の談話室における場面は私を完全に魅了した。その時から、私がそれを手に入れるまでの間、数学とは私にとって、まず第一にトリニティのフェロー資格のことを意味するようになった。
ケンブリッジにやって来るとすぐ、私はフェロー資格が「独創的な仕事」を意味することを知った。しかし、研究について何らかの具体的な考えを形成するまでには長い時間がかかった。私はもちろん、それまでの学校で、すべての数学者の卵と同様に、しばしば教師よりも数学がよくできるという経験をした。そしてケンブリッジでも、もちろんそれまでより頻度は落ちたが、カレッジの教師よりもうまくできることがあった。だが私は、トライポスを受験する時期になってさえも、私がその後の人生のすべてを費やすことになる対象について、本当に無知であった。私はまだ、数学を基本的に「競争的な」対象とみなしていた。私の目を初めて開かせたのはラヴ教授であった
。私は彼に数学期にわたり解析学の重要な概念について教わったのだが、私が彼に大きく負っているのは——彼は結局のところ、主として応用数学者だった——ジョルダンの有名な『
その後の10年間はたくさんの論文を書いたが、いかなる意味でもほとんど価値のないものだった。今でも何らかの満足とともに思い出せる論文は、4編か5編しかない。私のキャリアにおける真の転機が訪れたのは、10年あるいは12年が経ったときだった。1911年、リトルウッドと長きにわたる共同研究を始めたときと、1913年、ラマヌジャンを発見したときである。それ以後の私の価値ある仕事はすべて、彼らとともに行ったものである。彼らとの共同作業を始めたことが、私の人生における決定的な出来事だったのは明らかだ。今でも私は、絶望的な気分になったときや、尊大で退屈な人々の話を聞かねばならないときに、こんなふうに独り言をいう。「だが、私は君には無理だったことを一つやったよ。それはリトルウッドやラマヌジャンと対等に共同研究をしたってことさ。」彼らのおかげで私は相当な年齢まで成長をつづけられた。私がピークにあったのは40歳を少し過ぎたころで、オクスフォードの教授をしていたときだ。それからはずっと、止まることのない劣化という、老いた人、特に老いた数学者たちの共通の運命に苦しめられてきた。数学者が60歳になっても有能であることは可能ではあろうが、彼に独創的な発想を期待するのは無駄である。
もはや私の人生が終わったのは明らかだ——人生の価値ある部分については。私には、その価値を目に見えるほど増したり減じたりするようなことは、もはや何もできない。冷静でいることは非常に難しいが、私は自分の人生を「成功」であったとみなしている。私は、同じくらいの能力をもった人間にふさわしい程度よりも報われてきた。私は居心地のよい「威厳のある」地位を多数経験した。大学の退屈な雑務にはほとんど煩わされなかった。私は「教育」が大嫌いだが、ごくわずかしかそれをする必要には迫られず、かつそれらは、ほとんどすべて研究指導であった。私は講義は好きだ。そして非常に優秀なクラスでたくさんの講義をしてきた。また私には、研究に費やすことのできるたくさんの自由な時間があった。研究は私の人生において、涸れることのない大きな幸福であった。他の人々とも気分よく仕事ができたし、2人の並はずれた数学者と大規模な共同作業を行うこともでき、それによって、私が相応に望みえたよりもずっと多くのことを、数学という学問に付け加えることができた。他の数学者と同じく、残念なこともあったけれども、とりたてて重大なものはなく、特別に不幸な思いをすることもなかった。仮に20歳だったころに、これよりよくも悪くもない人生を提示されていたならば、私は躊躇せずに受け入れただろう。
「もっとよい人生を送れた」と考えるのは馬鹿げたことだと思う。私には言語や芸術の面の才能はないし、実験科学にはほとんど興味をもっていない。哲学者としてはなんとかやっていけたかもしれないが、特に独創性はもちえなかっただろう。法律家としてはうまくやれたかもしれない。しかし、学究以外で本当に自分の可能性に確信をもてた職業はジャーナリズムだけである。疑いようもなく、私が数学者となったのは正しかったのだ——その判断基準が、一般に成功とよばれるものであるならば。
したがって私の選択は正しかったのだ——私の望みが、ほどほどに不自由のない幸せな生活だったのだとすれば。だが、
私は〈有用〉なことは何もしなかった。私の発見はどれも、世界の快適さにはまったく寄与しなかった。過去もおそらく将来も、直接的にも間接的にも、よい面でも悪い面でも。他の数学者を育てる手助けはしてきた。だがそれは、私自身と同種の数学者をである。彼らの仕事は、少なくとも私が手助けした範囲においては、私の仕事と同じくらい〈有用〉でなかった。あらゆる実際的な基準で判断するならば、私の数学者としての人生は無価値である。数学以外についてはいずれにせよ取るに足りない。完全に取るに足りないという評決から逃れうる可能性は、私には一つだけある。それは私が、創造する価値のあるものを創造してきたと判断されるかもしれないということだ。私が何物かを創造してきたことは否定の余地がない。問題はその価値である。
そういうわけで、私の生涯、あるいは私と同じ意味において数学者であった者の生涯に関する弁明は、次のとおりである。私は知識の積み重ねに何物かを付け加え、また他の者がより多くを付け加えるのを助けた。そしてその何物かとは、程度の違いこそあれ、種類としては、偉大な数学者や、あるいは他の芸術家、偉大でもそうでなくてもよいが、彼らの創造したものと同じであった。彼らが去った後の世界に、何らかの足跡を残した者たちの。
覚え書き
ブロード教授とスノー博士はいずれも、科学のもたらした善と悪について公平であろうとするならば、戦争への影響に過度にとらわれてはならないと注意した。またそれについて考えるとしても、純破壊的な影響以外にも多くの重要な影響があることを心に留めねばならないとした。そこで(まず第二の点をとりあげると)、私は次のことを意識すべきである。(ア)全国民を戦争のために組織することは科学的方法によってのみ可能であること、(イ)プロパガンダという概して悪のために用いられるものの力を、科学は飛躍的に高めてきたこと、(ウ)科学は「中立であること」をほとんど不可能あるいは無意味なものにし、したがってもはや、戦争の後にそこから正気と復興が湧いてくるような「平和の島々」というべき場所はないということ。もちろんこれらは、すべて科学への反対論を支持する側にある。その一方で、この論を極限にまで推し進めたとしても、科学によってなされた善が全体として悪を上回らないと真剣に主張するのは難しい。たとえば、戦争のたびに一千万の命が失われるとしても、科学のもたらす効果は全体として、なお平均寿命を延ばしてきたといえよう。端的にいって、28節は「センチメンタル」すぎた。
私はこれらの批評の正当性について争わないが、緒言で述べた理由によって、本文でそれに応えることはできなかった。したがって以上のように述べるにとどめたい。
スノー博士はまた、8節について興味深い細かな指摘をした。「アイスキュロスが忘れられようともアルキメデスは記憶に留まりつづけるだろう」というのを認めたとして、数学的な栄誉は、完全な満足のためには少々「匿名的」すぎるのではないかと。アイスキュロスの作品からは、その人となりについて、だいぶはっきりした描像が得られる(もちろん、シェイクスピアやトルストイについてはもっと正確にわかる)。だが、アルキメデスやユードクソスは単なる名前として残るにとどまるだろう。
J. M. ロマス氏はこの点を、ともにトラファルガー広場のネルソン記念碑 の前を通りがかったとき、より鮮やかに描き出してみせた。ロンドンに記念碑が建てられ、その上に自分の像がのせられるなら、記念碑は像がみえなくなるほど高いほうがいいか、像の細部がみえるように低いほうがいいか。私は第一の選択肢を選ぶ。スノー博士は、おそらく第二の選択肢を選ぶだろう。
訳注
本書の著者、ゴドフリー・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy, 1877–1947)は、20世紀前半のイギリスを代表する数学者である。盟友J. E. リトルウッド(1885–1977)、インドの天才S. ラマヌジャン(1887–1920)とともに、おもに解析学や解析的整数論に関する研究を行った。また、1908年の著作『純粋数学教程』A Course of Pure Mathematicsは、イギリス数学界に、それまで軽視されがちだったドイツやフランスで発展していた厳密な論理にもとづく解析学を根付かせる役割を果たした。
ハーディはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学んだ。その後、1900年に同カレッジのフェローに選出され、さらに1906年に講師となった。1920年にはオクスフォード大学の教授職(Savilian Professor of Geometry)についたが、1931年に再びケンブリッジ大学に戻る。そして1942年まで教授(Sadleirian Professor of Pure Mathematics)を務めた。
本書が出版されたのは1940年で、ハーディが63歳のときのことである。
後の1967年に出版された版ではC. P. スノーによる序文が追加されたのだが、その冒頭には、1931年、オクスフォードからケンブリッジへと帰ってきたハーディについての若い数学者たちの評として、「彼は型破りで、風変わりで、急進的で、どんな話題もお手のものなのだ」という言葉が記されている。そのように評されたハーディの切れ味の鋭さは、本書でも輝きを放っている。一方で、この本を読み終えた人はきっと、なんと悲痛なトーンに貫かれた本だろうかとも感じるだろう。
「ある数学者の弁明」(A Mathematician’s Apology)という本書のタイトルからは、プラトンの『ソクラテスの弁明』が想起される。ソクラテスのそれと同様に、ハーディの「弁明」も謝罪ではないことに注意しよう。アテネの法廷で死刑を求刑され、弁論を行うソクラテスのように、63歳のハーディも、ただ、自らの考え方や行動の正当性を説明しているのである。そして訳者には、ソクラテスと同じように、ハーディも死を目前に強く意識しながら、その弁明を行っているように感じられる。
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本書の本文は29節からなり、それらに加えて「緒言」(Preface)、「覚え書き」(Note)がある。本文2節において全編を貫く「数学に懸ける人生が正当化されるほどの数学の価値とは何なのか」という問いが提示され、それに答えを与えるべく、ハーディは6節から彼の数学観と人生観を述べ始める。
訳者の私見では11節から17節にわたる数学の〈真剣さ〉、特に17節における〈深さ〉についての記述が白眉だが、読者は他にもたくさんの魅力的な記述をみいだすことと思う。
ハーディの過ごしてきた20世紀前半のイギリス社会や、そこに暮らす学者たちの様子が垣間みえるのも、本書を読んでいて面白い点である。特に、トリニティ・カレッジの人々が、そうとは触れられずに多数登場している。
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本書を味わうためには、「カレッジ」(college)について知っておいたほうがよい。これはケンブリッジ大学やオクスフォード大学などに存在する独特の組織で、日本語では「学寮」とも訳される。各カレッジは「大学」(university)から独立していて、それぞれに資産や安定収入をもっている。学生や教師は皆いずれかのカレッジに所属し、当時はほとんど全員が寝食を共にした。教育の面でも、その主体となったのは、実は大学によって行われる講義ではなく、各カレッジにおける、コーチとよばれる教師による個人指導だった。
ケンブリッジ大学最古のカレッジは、1284年創立のピーターハウスである。トリニティ・カレッジは1546年につくられた。ハーディのころには、トリニティには学生を含めて1,000人近くがいたようだR. Kanigel, The Man Who Knew Infinity: A Life of the Genius Ramanujan, Charles Scribner’s Sons, 1991(邦訳『無限の天才——夭逝の数学者・ラマヌジャン』。田中靖夫による訳)による。この本に関しては、以下で細かく引用する際には、入手しやすいWashington Square Pressのペーパーバック版(以下WSP版とよぶ)におけるページ数に節番号を添えて示す。トリニティ・カレッジの在籍者数についての記述は127ページ(4.4節)にある。。
カレッジの運営への関与が認められた構成員が「フェロー」である。というよりも、「第一義的には、カレッジとはフェローの集まりのことだ」という説明のほうが適切かもしれない。フェローの地位は基本的には終身のものだが、若手に与えられる特別な有期資格もあった。フェローであることは講師(カレッジの役職)や教授(大学の役職)であることとも両立する。ハーディの場合、1900年に得たのは有期のフェロー資格で、1906年の講師就任と同時に、フェロー資格も終身のものに切り替えられている。
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本書が1940年に出版されてから、いくつかの書評が書かれた。それらのうち、L. J. モーデル(1888–1972)が1970年に『アメリカ数学月報』The American Mathematical Monthlyに寄せた書評が相当に批判的なものであることをここでとりあげよう。ハーディの見解はときに過度に断定的で、例外や限界の存在に無頓着だというその主張には、一定の理がある。
モーデルは特に、本書冒頭にある、「数学者の役割とは、何かをなすこと、新しい定理を証明すること、数学という学問に何かを付け加えることであって、自分や他の数学者のなした仕事を語ることではない」という文に疑いの目を向ける。たしかにこれは、明らかに賛否が分かれる内容である。ハーディ自身、若いころから論文以外にも、『純粋数学教程』を書いたり、多数の書評を執筆したりしたD. J. Albers, G. L. Alexanderson, W. Dunhum (eds.), The G. H. Hardy Reader, Cambridge University Press, 2015の125–135ページにハーディの執筆した書評が収録されている。。上記の文は、それをも否定するものと考えるべきなのだろうか。
訳者の理解では、ハーディはこれが議論を巻き起こす見解であることは百も承知なのだ。おそらく彼自身の中でも対立する見解とのせめぎ合いがありながら、それでも、彼にとっての捨てがたい一つの真実を際立った形で描き出すために、あえてこういった書き方をしているのである。
ハーディの言葉に「It is never worth a first class man’s time to express a majority opinion. By definition, there are plenty of others to do that.」(多数派に属する意見を表明することは一流の者が時間を費やすに値しない。定義によって、それをする人間は他にたくさんいるからだ)というものがある本書の原著1967年版のC. P. スノーによる序文、46ページ。。これは半ば冗談なのだろうが、しかしそういう発言をする人物だったと知っておくことは、本書を読むにあたっても助けになると思われる。
いずれにしても、本書の記述は無批判に受け入れられるべきものではない。本書は、気軽に、しかし一定の距離をとりながら読むべき本である。
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以下では、本書の記述を抜き出しながら注釈を加えていく。またその中でハーディについてのさらなるエピソードにも触れよう。論旨について評することは、基本的にはしない。読者には、ハーディ自身の記述を味わいながら、それぞれに考えてみていただきたい。
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訳者あとがき
以上は、G. H. ハーディ(1877–1947)によって書かれたA Mathematician’s Apologyの日本語訳です。
原著は1940年にケンブリッジ大学出版局から出版され、またその後、C. P. スノーによる長い「序文(Foreword)」を加えた版が1967年に出ました。この翻訳では1967年版を底本とし、ハーディの書いた部分のみを訳出しています。ハーディは1947年に死去しており、その著作については日本における著作権保護期間が終了しているため、翻訳を特別な許可を得ることなく公開するものです。
訳文の検討にあたり、宮谷和尭さんに大きなご助力をいただきました。感謝いたします。
なお、スノーの「序文」をも含めた翻訳が柳生孝昭さんによりなされ、『ある数学者の生涯と弁明』として出版されています(現在は丸善出版から)。「序文」に興味がある方は、ぜひそちらもご覧ください。
2016年11月13日
松本佳彦
第2版における追記
初版を完成させて以来、数人の方に誤記等を指摘していただき、また明らかな誤訳もいくつか発見したので、適当な時機にそれらを反映するつもりでいました。そんな中で時枝正さんに幾度にもわたって関係するお話を伺う機会を得て、さらに本書にまつわる文献をご紹介いただき、このことにより内容の理解が著しく深まったため、改訂を大幅な訳注の増補を伴う形で行うことにしました。
時枝さんを初めとして、助けていただいた方々に感謝します。記述の正確性、適切さについては、もちろん訳者に全責任があります。
訳注の冒頭には、本書の記述は無批判に受け入れるべきものではないということを書きました。付け加えると、本書に底流する男性中心主義的な感覚も、過去の遺物というべきでしょう。数学について少し違う角度からみるための本の一例として、イアン・スチュアート『若き数学者への手紙』Letters to a Young Mathematicianをお薦めします。現在、冨永星さんによる翻訳がちくま学芸文庫から出ています。
2019年4月30日
松本佳彦
ライセンス
この文書にはクリエイティブ・コモンズBY-NC-SA 4.0国際ライセンスが適用されます。
更新履歴
- 2013年4月28日——翻訳を開始。
- 2016年6月10日——翻訳の初稿が完成。
- 2016年11月13日——完成版をリリース。
- 2016年11月14日——HTML版の一部にPDF版とのずれがあったので修正しました。
- 2018年12月23日——第2版ベータ版を公開しました。
- 2019年5月21日——第2版完成版を公開しました。