「数学カフェ」講演備忘録
2018年3月3日
第23回「数学カフェ」でお話ししたので、その記録をしておこうと思います。
参加してくださったのは91人(くらい)で、バックグラウンドはいろいろでしたが基本的にはほぼ「一般の」皆さん。非常に熱心な会で、講演中に随時質問を受けましたが、たぶん30〜40個は出ていたのではないか? 時折立ちつくしながら答えました。正味4時間強、楽しく過ごさせていただきました。
内容は、微分幾何学、特にRiemann幾何学における「曲率」の概念の紹介です。入門段階ではあまり見かけないような、しかし感覚を養うのに役立つような紹介の仕方を狙いました。
普通に考えればこれは、大学の数学科4年生以上(?)が対象となるようなレベルの内容です。ですが「数学カフェ」の皆さんの熱心さを頼りに、口当たりのよい説明にとどまらない、本気の話をしようと思って頑張りました。——果たしてこれは「カフェ」か? まあ、強めのお酒が出るカフェもありますから。
もう少し突っ込んだことを言うと、タイトルにあるように今回「比較定理」というものを取りあげた背景として、講演でも話したのですが、自分の中には「Riemann幾何学がこんなにも特別に華やかである理由を考えてみたい」という意識がありました。
僕はもともとRiemann幾何学から専門的な数学に入門したわけではなくて、自分にとっての入り口は、共形幾何学やCR幾何学といった、同じ微分幾何学の中でも比較的マイナーな諸分野でした(というか、そもそもの入り口は複素関数論だったんですが、それは置いておく)。そういったマイナーなものに取り組んだことで、質問できる相手が非常に限られるといった難しさはありつつも、一方で、それによって獲得できた視野の広さというものがあるように思っています。個々の分野に、それぞれの立場に応じた「曲率」があること。それらを統一的に理解するための高い視点が存在すること。
翻って、そういうことを知ると、「ではRiemann幾何学ばかりなぜ発展しているのか」ということも改めて不思議に思われてくるところがありました。明らかな一つの理由としては一般相対性理論の成功に伴う研究者人口の増大があったんでしょうけれど、そういうことではない答えが欲しい。今回の話には、この問いに対する解答の試みという意味を込めています。
つまり、「Riemann幾何学には比較定理がある」のが重大なのだろうというわけです。たとえば共形幾何学にも何らかの意味で比較定理が存在するなんてことにはならないのか? まあ、望みは薄そうだけど、完全に諦める理由もないんじゃないかと思うのですが……。
全体を4部に分けました。各々の内容をまとめておくと以下のとおりで(個人的なメモ書きに近い感じですが)、第2部と第3部が主要な部分です。
- 第1部——Riemann多様体とは何か
- Euclid平面$\mathbb{E}^2$には「直線」があり、球面$\mathbb{S}^2$、双曲平面$\mathbb{H}^2$にも「直線(測地線)」の概念があって、これらは「距離」の概念と結びついている。Riemann多様体とは、そこに「距離」と「測地線」があるような、もっと一般化された空間概念である。
- 空間の一部分を$\mathbb{R}^n$の部分集合として写し取った「地図」のことを「チャート」と呼ぶ。チャートたちで全体が覆われているような空間が「多様体」である。もっと緩い言い方をすれば、多様体とは、空間の全域を覆い尽くすような「地図帳」を備えた空間のこと。
- 多様体$M$の点を一つ任意に決めて、その点において「曲線の速度ベクトルになり得るベクトル」を考える。そういったベクトルを「接ベクトル」と言い、それらの全体は「接空間」と呼ばれるベクトル空間をなす。点$p\in M$に対し、$p$の属するチャートを一つ選ぶと、それに伴って接空間$T_pM$は$\mathbb{R}^n$と同一視される。
- 多様体のあらゆる点において、接空間に内積を与えよう。これがRiemann計量と呼ばれるもので、Riemann計量を備えた多様体がRiemann多様体。Riemann計量があれば、接ベクトルの大きさの概念が定まり、曲線の速度ベクトルの大きさを測れるようになって、そうして「曲線の長さ」、さらに2点間の「距離」が定義される。さらにそこでは、「測地線」の概念が意味を持つ。
- 第2部——曲率とは何か
- Riemann多様体において、同一の点$p$を出発する、初速度の方向が少しだけ異なる2本の測地線$\gamma_1$, $\gamma_2$を考え、始点から等距離にある2点の間の距離を測ってみる。$\mathbb{E}^2$の場合と比べて、$\mathbb{S}^2$では距離はより小さく、$\mathbb{H}^2$では距離はより大きくなる。
- 点$p$における曲率を、上記のような$\gamma_1$, $\gamma_2$の、始点から等距離にある2点の間の距離を「縮める力」を与えるものとして導入することができる。あるいは同じことだが、曲率を、測地線に沿ったJacobiベクトル場を「縮める力」を与えるものとして導入することもできる。
- Jacobiベクトル場の満たす「Jacobi方程式」と呼ばれる微分方程式は、上記の見方の正当性を裏付けている。曲率が一定であれば、Jacobi方程式はばねの運動(調和振動子の運動)の運動方程式と同じである。曲率が一定でなくても、$n$次元のRiemann多様体において、Jacobiベクトル場は言わば、曲率という「位置や向きによって変化するばね定数」を持った、動きに$n-1$次元の自由度を持つ「ばね」と見なすことができる。
- 第3部——曲率の役割
- 「曲率はJacobiベクトル場に働く力を与える量なのだ」という上記の見方によって、2つのRiemann多様体$M_1$, $M_2$の間に曲率の大小関係があれば、$M_1$, $M_2$におけるJacobiベクトル場の大きさについて、一定の関係が存在すると期待される。それは「Rauchの比較定理」として定式化できる。特に空間が2次元なら、Rauchの比較定理の帰結は、以上のような見方でごく自然に理解できる。(講演では、$M_1$, $M_2$のうち一方が定曲率空間である場合について述べた。)
- 「Bonnetの定理」や「Cartan–Hadamardの定理」の証明の鍵は、Jacobiベクトル場に関する、Rauchの比較定理から従うような性質である。
- 第4部——無限遠境界
- Cartan–Hadamard多様体$M$には、「無限遠境界」$\partial_\infty M$が付随する。その無限遠境界$\partial_\infty M$自身が自然に幾何学的構造を持つ場合がある。たとえば、$M$がEuclid空間なら$\partial_\infty M$はRiemann多様体の構造を持ち、$M$が双曲空間なら$\partial_\infty M$は共形多様体の構造を持つ。
- 実際のところ、無限遠境界のそういった幾何学的構造を導いているのは、Cartan–Hadamard多様体のどういった性質なのだろう? これはあまり明らかになってはいない。チャレンジングだけれど、興味深い問題意識だと思う。
- 「共形コンパクト多様体の幾何・解析」という研究分野がある(松本もやっている)。この分野では「こういうときは無限遠境界に共形多様体の構造が備わっていると考えられる」と言える状況をともかく設定して、その範囲内で諸現象を調べようという姿勢が採られている。いろいろ深いことがわかる。
- 一方で、その範囲をぎりぎり外れるところで何が起こるか、ということにも意識を向けたい。(これは講演では言いませんでした。)
なお技術的な点として、今回の講演では、「接続」の概念を(ほぼ)回避するという工夫をしました。主な理由は、限られた時間でそれを導入しても、足枷にしかならないと思ったからです。でも本格的に微分幾何学をやるなら接続は不可欠な道具なので、やってやろうと思う人は、毛嫌いせずに勉強してしまってくださいね。
最後にスライドの書体について主催者さんに聞かれたので書いておきます。まず、そもそもですが、スライドはLaTeX(正確にはupLaTeX)+Beamerで作りました。「今さら人に聞けない「日本語でBeamer」のキホン」がとても参考になります(もちろん『LaTeX2ε美文書作成入門』にも目を通す!)。それで書体は、和文が源ノ角ゴシック(pxchfonパッケージを利用)、欧文がOptimaによく似たBiolinum(libertineパッケージを利用、\usepackage{scale=1.1}{libertine}
などとすると大きさのバランスが取れる)でした。Beamerで利用したときの(ということなのだろうか?)pxchfonの振る舞いに謎なところがあったのでそのうち解決したい。